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京都旅行記2022Ⅱ~大徳寺 総見院編~ [日本の旅(京都)]

大徳寺で今回見学した最後の塔頭は総見院。(聚光院のすぐ近く(たしか隣)
48 (173).jpeg48 (172).jpeg
48 (174).jpeg織田信長公
重要文化財の木造織田信長公の坐像が見られます。拝観料は600円。

総見院は、本能寺の変で明智光秀の謀反により49歳で生涯を閉じた織田信長公の菩提寺で
創建は天正11年(1583)、信長公の一周忌を迎えその追善のために豊臣秀吉公が建立し、
創建当初は寺勢大いに隆盛し、広大な境内に豪壮な堂塔が建ち並んでいたそうで、
創建当時の建造物である正門や土塀に往時の雰囲気をわずかに偲ぶことができます。
その後、明治初年の廃仏毀釈により堂塔伽藍や多くの宝物が灰燼と化しましたが、
大正年間に再興し、昭和36年(1961)には本山に安置されていた信長公木像を再び迎え、
380年忌を盛大に営みました。
総見院の開祖は古渓宗陳和尚(安土・桃山期の名僧で千利休参禅の師として知られる)、
創建以来、6月2日の信長公の年忌には一山総出で盛大な法要が営まれそこで用いられた
美術工芸品(国宝・重要文化財含む)が寺宝として多く伝えられています。

というお寺ですが院内は撮影禁止、最初に本堂でガイドさんの説明を聞きます。
総見院についての説明と、山門 (金毛閣)の上層に雪駄を履いた千利休の木像を安置、
その下を通った豊臣秀吉が千利休の足の下を通ることに憤慨して、千利休が切腹した、
のではないかと言われている話もうかがいました。
本堂があまり広くないのでかなり至近距離に織田信長公の坐像を見ることができましたが、
教科書で知っている顔じゃない(日本史の授業が苦手な人はこの程度の反応です)と
上野の西郷さんも顔違う説があったりするのと同じで、肖像とか銅像、木像など、
作者によって実際とかけ離れることがあるのだろうということをしみじみ感じました。
この後、本堂から横に回って渡り廊下の上部に設置されている輿を見学。
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輿をこういうところに設置するというのも面白いですね。
48 (178).jpeg48 (179).jpeg寿庵席
48 (181).jpeg48 (182).jpeg龐庵と香雲軒
前半のんびり見学していたせいか、思いのほか次の予定まで時間がなくなって
きていたのでこのあたりかなり早足で見学しました。
48 (184).jpeg墓所のあるエリアに移動します
48 (185).jpeg石屋さんのベンチ
これが銚子だったらヒゲタとヤマサなんだよなあ、とベンチを観ながら
銚子に行きたくなりました。
48 (186).jpeg掘り抜き井戸 
加藤清正が持ち帰った朝鮮石を使っていますというスタッフの方の説明に、
黄梅院で観てきた朝鮮灯籠の話をすると、行きは船に装備や武器を積んでいって、
帰りは船底に置くような重りがないので石を持ち帰ってきたんでしょうね、と
説明してくれました。現在でも水が湧き出るので朝のお供えに使われているそうです。48 (187).jpeg墓所に到着
48 (190).jpeg48 (191).jpeg
親切にどれがどなたのお墓なのか説明してくれる看板もありましたが、
48 (192).jpeg一番豪華なのが信長公というのは一目瞭然
この横に、お姫様や奥様のお墓も並んでいたのですが、
48 (189).jpeg信長公ご息女 徳姫様
48 (195).jpeg信長公正室 濃姫様
48 (194).jpeg信長公側室 お鍋の方
亡くなっても側室の立場がこういう墓石で表現されているのってなんだか切ないです。
48 (196).jpegしかも正室と側室が並んでいるし。(;_:)48 (198).jpeg侘助椿
秀吉公が千利休から譲り受けて植えたものと言われている椿。
早春に小さな花を咲かせてお茶人に珍重される椿だそうです。
樹齢400年以上、日本最古の胡蝶侘助と言われています。

と、ここまでで塔頭6か院を見学することが出来たので、
次の目的地に向かいます。
48 (200).jpeg山門
この上に千利休の木像を置いたことで秀吉が怒って千利休が切腹する、
成り上がった分だけプライドも高いのかな、と思いながら大徳寺を後にしました。

と、お腹が空いてきたところで目的地に向かう前に近くでランチします。


(つづく)



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