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京都旅行記2022Ⅱ~大徳寺 龍源院編~ [日本の旅(京都)]

不十分な下調べで(毎回そんな感じ)特別公開まで時間があると現地で気づいたものの、48 (67).jpeg龍源院が開いていたので中へ。
拝観料は300円です。

龍源院(りょうげんいん)は、「洛北の苔寺 名勝庭園」と呼ばれ、
大徳寺の山号(龍寶山)の”龍”と今日の臨済禅で唯一存続している松源一脈の”源”の
文字をとって名付けられ、文亀2年(1502年)、大徳寺のご開祖、大灯国師より
第八代法孫の東渓宗牧禅師を開祖として、能登領主の畠山義元公、九州都総督の
大友義長公(大友宗麟の祖父)らが創建した塔頭です。
明治初期の神仏分離によって、住吉神社(大阪)内にあった慈恩寺と、岐阜高山城主
金持長近が大徳寺に創建した金竜院を合併して現在に至る、と書いてありました。

尚、今回の各説明はお寺でいただいたリーフレットと、
(京都さんぽさん)https://furafurakyoto.com/daitokuji-ryogenin/
こちらのサイトを参考に書いています。

室町時代の禅宗方丈建築(重要文化財)の本堂を中心に、異なった趣の禅宗庭園が
取り囲んでいる龍源院、拝観入口から進んで最初にたどり着くのが、
48 (71).jpeg書院
書院、というと、ワープロを思い出す昭和世代です。(笑)
48 (72).jpeg書院から見えるお庭は 48 (73).jpeg滹沱底(こだてい)
見たことのない漢字(自分では書けない)で表記されるお庭です。 
阿吽の石庭で、写真奥の方にあるのが阿の石、手前にあるのが吽の石、
中国河北の鎮州城の南に流れる滹沱河から名付けられたお庭だそうですが、
この歳になるときれいに整えられた石庭に心落ち着きます。
この後、他のお庭に移動している途中で拝観受付を見ると
48 (77).jpegにゃぁ(リード付)
帰る頃にはいなくなっていので機嫌がよいと外に出てくるのかもしれません。 
48 (79).jpeg創建当時から現存する担雪井を通って
48 (81).jpeg東滴壺(とうてきこ)
方丈の東にある昭和33年につくられた壺庭で、日本で一番小さい石庭だそうです。
真ん中に描かれた丸い波紋は一滴の水が滴り落ちる様子を表現していて、
一滴の水が小川から大河となって大海(悟り)につながるように一滴の水の大切さを
表現している庭とのことですが、
こういうスペースにもお庭を造り大切な心掛けを
教えていただいるようで
有難い心持ちです。
48 (94).jpeg角度を変えるとこんな感じ
48 (83).jpeg方丈の前には方丈前庭園
48 (82).jpeg一枝坦(いっしだん)
当院開祖の東渓禅師が、師である実伝和尚から賜った室号、霊山一枝之軒に由来し、
かつては樹齢700年の山茶花”楊貴妃”が生い茂り11月中旬から4月ごろまで真紅乃花を
一面に咲かせて有名だったそうですが昭和55年(1975)年に樹齢尽きて枯れてしまった、
と説明に書いてありました。(静かな中に燃えるような紅の花、想像しました)
手前の島が亀島、奥の方にあるのが右から鶴島、蓬莱山(不老長寿の吉祥の島)、
全体の白い砂浜は大海原をあらわしているそうですが、石庭ってほんとに小宇宙だなあ、
今回改めて感じました。

48 (86).jpeg違う向きから見ると
また見え方が異なるのも石庭の面白さですね。 
48 (87).jpeg檀那の間
経済面でお寺や和尚を外護し世話する檀越(だんおち)、檀家の者と和尚が
お茶など飲みながら親しく会う間です。
48 (91).jpeg方丈室中の間
面十六枚の竜と波の図(筆者不明)が描かれています。
方丈前庭園からぐるっと廊下を歩いて反対側にあるお庭へ移動して、
48 (95).jpeg竜吟庭 
48 (96).jpeg苔がとてもきれいだったのですが
私の撮影センスとスマホの限界を感じる写りとなりました。(^^; 
48 (97).jpeg苔の密密感が好きです  48 (101).jpeg下間の間(書院の間)
現在の応接室、方丈の下手の間のことで、公式の賓客と応対相見するところで、
敷物の暖席(畳)は昔高貴な肩が使われたもので一般の人々は使用できなかった、
という場所です。 
48 (99).jpegこの屏風絵
昔、堺の南宗寺塔頭 松林寺に一人の雲水僧がいて墨染めの頃に身を包み坐禅や托鉢を
して毎日修行し、ある時はこっそり町へ出て貧しい人を助け、ある時は和尚になって
悩み迷う人を救い導き、常に世間の困った人々を助けていたそうですが、
実はこの雲水、松林寺山内の耕雲庵内に住む一匹の古狐で、この古狐の亡き後、
付近の人々は「白壁主」といって今現在も耕雲庵の裏山に祠を建て祀っているそうです。
この屏風は明治時代の画匠鈴木松年先生が白壁主の逸話を画材に描いた傑作と言われ、
これにまつわる話として、大阪西成区に住む杉浦某氏が家業不振に家庭の不幸が続き、
行者に観てもらうと、自宅にある狐さんを画いたお軸か屏風があれば、その狐さんが
まだ修行中の身で修行したがっているので大阪より北、京の都に狐さんが望む寺が
あるのでそこに納めるように言われて昭和35年、京都にやってくると龍源院の門前で
足がとまってこの絵を納めた、ということです。
室名が「狐窟」と銘された書院の間がある龍源院に白蔵主の屏風が寄進されるというのが
不思議な因縁と説明に書いてありましたが、寄進した後の、杉浦家は平穏無事に過ごし、
今でも西成区に住んでいらっしゃるそうなので、狐さんを大事にしないといけない、
ということなのでしょうね。(昭和の実話ということでびっくりしました)
48 (103).jpeg禁煙です(木造ですからね)
と、特別公開が始まる前に偶然やってきたことで入った龍源院、
(大徳寺の塔頭の中で最古のお寺だと記事を書く段になって知りました)
苔と石庭の美しさに早起きしてよかった!と思いながら、
次は常時公開している塔頭の瑞峯院に向かいます。  


(つづく)



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