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東北の旅2023~中尊寺編①~ [チームSの旅]

ちょっとした珍事の中、たどり着いた中尊寺。
世界遺産に登録されている「平泉」に構成されている資産のひとつが
天台宗のお寺である中尊寺の中の金色堂や特別史跡の中尊寺境内など。
今回中尊寺以外は訪れていませんが、今回折角中尊寺を訪れる機会を得ましたので、
いずれ他の世界遺産の構成資産にも行ってみたいと思います。(宿題です)

けーすけ兄は実感の北陸に住んでいたころの修学旅行で訪れたことはあるものの
記憶があまりないとのこと、snorita姐は何度かきたことがあるので初めては私のみ。

というわけで、「そんなこと知ってる」と言われそうですが、
私が知らない場所ということで(私の備忘録としてお許しを)
中尊寺のホームぺージから簡単に御由緒とお寺の歴史について最初にまとめます。

(中尊寺ホームページ)

https://www.chusonji.or.jp/know/index.html
https://www.chusonji.or.jp/know/history.html

中尊寺は、平安時代の嘉祥3年(850年)、天台宗第三代座主である比叡山延暦寺の
高僧慈覚大師円仁によって開山されたと言われています。
11世紀後半の戦乱(前九年・後三年の合戦)を経て安倍氏・清原氏と受け継がれた
奥六郡(岩手県中南部)を藤原清衡公が
伝領し、11世紀後半東北地方で続いた戦乱で
亡くなった霊を敵味方の別なく慰め、辺境(みちのく)とされた東北地方に仏国土を
建設する
という大きな趣旨と非戦の決意によって、平泉に居を移した後、
長治2年(1105)から清衡公が中尊寺の造立に着手、青森から福嶋まで笠卒都婆と
呼ばれる供養塔を一町ごとに建てて、その中心となる関山に一基の塔を建て、
境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を、続いて百余体の釈迦如来を
安置した釈迦堂
を建立しました。
当時は寺塔40余宇、禅坊300余宇に及ぶほど大きな規模だったそうですが、
現存する創建
遺構は金色堂のみです。
(平安時代の漆・金属工芸や仏教彫刻の粋を凝縮した奥州藤原氏の葬堂
の位置付)

その後、平泉は二代基衡が毛越寺、三代秀衡が無量光院を造立して仏教文化が
花開きますが、
三代秀衡公の猛盛をたのんで平泉に北接する衣河館に源義経が寄寓し、
治承4年(1180年)、兄源頼朝の挙兵に呼応して義経は平家を追討し、
一躍英雄となったのち、今度は頼朝との亀裂によって追われる身となった義経、
文治3年(1187年)、秀衡公をたより再び平泉に身を寄せるものの、
同年10月に秀衡公が病死、
四代泰衡公は、頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に
追い込みますが、今度は源頼朝を棟梁とする
鎌倉の軍勢が奥州を攻め、
文治5年(1189年)、藤原氏は滅亡します。  


※こういう歴史についてはどちらの目線で見るかで見方が変わるものですが、
 藤原家に世話になったのに頼朝って酷い、、、なんて思ってしまいました。

平泉の寺々を巡礼した頼朝はその仏教文化に感銘を受け、中尊寺二階大堂にならって
鎌倉に
永福寺(二階堂)を建立し、奥州の国務は藤原氏の先例に従うように命じ、
御家人の葛西清重に
平泉の安全を保つよう命じたものの、奥州藤原氏という大きな
後ろ盾を失った中尊寺は、
以後長く厳しい時代が続きます。

※北条政子の夢枕に藤原秀衡公があらわれ平泉寺院の修理をうながしたことにより、
 幕府は郡内の地頭にその修理を命じたと言われているそうですが、源氏も酷いなあ、と
 この辺りの説明を読んで唸ってしまいました。

鎌倉時代、金色堂の修理や覆堂を設けるなど数度にわたる修理を行ったものの、
次第に平泉内の寺院は荒廃していきます。
南北朝時代の建武四年(1337年)、中尊寺に大きな火災が発生し、戦乱と貧困の中、
金色堂や中尊寺経等の寺宝がかろうじて守り伝えられていきました。
戦国時代に入ると平泉の諸寺院はますます荒廃が進み、豊臣秀吉は小田原北条氏を降し、
続いて東北地方の仕置きを行い、秀吉の命令によって中尊寺の秘宝「金銀字一切経」と
「金字一切経」あわせて4,000巻以上が京都伏見に運び出され、
現在「中尊寺経」として
高野山や観心寺などに所蔵されています。  

※秀吉の仕置きという表現に以前京都で見た耳塚をふと思い出しました。
 権力を示すためとはいえ、
やることが残忍というかエグイというか、
 やっぱりこの人のことは好きになれないな、と
以前京都旅行の予習として買って
 読んだ豊臣秀吉の漫画を思い出しました。
 (でも、観心寺には行ってみたい気持ちがふつふつ湧いてきました)

江戸時代、平泉は仙台藩領となり、歴代の藩主は寺の収入を安堵し、堂社を修理する
など
中尊寺を篤く保護し、山内に点在する堂の多くもこの時代に建立されました。
能楽を愛好する藩主が、古来から中尊寺の僧侶により山内の白山神社に奉納されてきた
御神事能を推奨して能舞台が建立され、また、江戸幕府の寺社政策によって上野の
東叡山寛永寺の直末寺となりました。

また、松尾芭蕉との所縁についても記載がありました。
源義経が平泉に自害し奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、
松尾芭蕉は門人の曽良と2人で「奥の細道」の旅に出て、江戸を発って44日後の
5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったとされる
高館の丘陵にのぼり、束稲山のふもとに流れる北上川とそれに合する衣川、
往時の栄華はなくなり旧跡が田野となって広がる光景を見て、
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら
詠んだ句が、
夏草や 兵どもが 夢の跡”。
続く中尊寺を訪れた芭蕉は、金色堂に参詣し、覆堂の中で朽ち果てた金色堂が
かろうじて光を投げかけるのを見て”五月雨の 降り残してや 光堂”と詠んだ
そうです。

明治時代以降、金色堂は国庫補助による修理が数度行われ、
第二次大戦後には、法隆寺金堂壁画の
焼失をきっかけとして文化財保護の機運が
高まる中、制定された「文化財保護法」によって
金色堂は国宝建造物第一号に
指定され、3,000点以上の宝物も国宝・重要文化財の指定を受けました。

昭和25年(1950年)には金色堂須弥壇内に800年間安置されてきた藤原四代公の
御遺体の
学術調査が行われ、四代公の人種、年齢、死因、身長や血液型など多くの
ことが解明され、
多数の副葬品の中で四代泰衡公の首桶から発見されたハスの種が
平成10年開花に成功し、
現在「中尊寺ハス」として株分けもされ様々な場所で
初夏にその姿を見ることができます。


昭和33年(1958年)比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯、天台宗東北大本山の称号を
認められ、
昭和37年(1962年)金色堂の解体大修理が行われ、金色堂は創建当初の
輝きを取り戻し、
平成23年(2011年)「平泉-仏国土を表す建築・庭園及び考古学的
遺跡群-」として
世界文化遺産に登録され、奥州藤原氏の平和思想にもとづく文化が
世界に発信されています。


藤原家によって仏教文化が花開いた後、長らく後ろ盾を失って荒廃していった中尊寺も、
戦後から文化財として修理され寺格としても天台宗東北大本山の称号を認められるまで
復活したということなのだな、とざっくりながら理解することができました。

と、前置きが非常に長くなったのですが、チームS、まずは本堂をめざして参道である
月見坂を上りました。
チームS東北旅2023 (70).jpeg姐、この時はまだ心折れそうなお疲れ具合 
舗装されていない砂利道で上りなので歩いているとじとじと汗が出てきます。
チームS東北旅2023 (71).jpeg樹齢350年の老杉
これらは仙台藩によって植樹されたものだそうです。  
チームS東北旅2023 (72).jpeg蛇イチゴ? 
チームS東北旅2023 (74).jpeg弁慶、ここでも発見
以前、滋賀県の三井寺でも弁慶エピソードに触れたのですが、
東北にも弁慶かあ、行動範囲広いなあ(今みたいに交通便利じゃないし)
驚きつつ、なんでもあやかってデザートにしてしまうと苦笑。(^-^;

この先を進んでいくと、本堂より手前に弁慶堂がありましたので寄ってみます!


(つづく)


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