福岡旅行記2019~太宰府天満宮編②~ [日本の旅(九州&沖縄)]
太宰府天満宮の敷地内の博物館に移動する途中、
今度は筆塚
野見宿祢碑
説明書き(手抜き)
筆塚は、菅原道真公が書の三聖の一人と崇められ書道の神として信仰されたことから
使い終えた筆に感謝し書道の上達を願う筆塚祭が行われているそうです。
もう一つの野見宿祢碑は、菅原道真公の祖先で相撲の神と言われる野見宿祢の碑で
写真は撮っていないのですがその前に力石も置いてありました。
と歩きながら
到着 菅公歴史館
ジオラマで見る菅公の歴史です
(ホームページ) https://www.dazaifutenmangu.or.jp/art/rekishikan
野見宿祢碑
説明書き(手抜き)
筆塚は、菅原道真公が書の三聖の一人と崇められ書道の神として信仰されたことから
使い終えた筆に感謝し書道の上達を願う筆塚祭が行われているそうです。
もう一つの野見宿祢碑は、菅原道真公の祖先で相撲の神と言われる野見宿祢の碑で
写真は撮っていないのですがその前に力石も置いてありました。
と歩きながら
到着 菅公歴史館
ジオラマで見る菅公の歴史です
(ホームページ) https://www.dazaifutenmangu.or.jp/art/rekishikan
拝観料は200円。優しいお心遣いを感じます。
入口には菅公の肖像画と牛
ここからジオラマゾーンです。
(一)梅の花の歌
梅
道真公が5歳のときに
「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」と詠み、
11才で漢詩も作った、私は5歳の時何をしていたんだろうと思いました。
(比較すること自体が間違い(笑))
(二)お母さまの祈り
左がお母さま
わが子(道真公)が学問ができるよう、また、達者に成長するようにと
観音様に毎日お参りして祈りを捧げました。
うちの婆1号は、「ばかでも元気に育ってよかったよ」と私によく言うのですが、
確かに、勉強できなくてもそれなりに生活できているので凡庸な人生ながら
これはこれでいいのだと思います。(比較すること自体が間違いです(笑))
(三)文武の達人
道真公
幼いころから学問に加え弓道にも励み、26歳のときに都良香邸での弓の会で
百発百中の腕前で多くの人々を感動させられました。
道真公、文武両道です。
(四)文章博士
道真公 33歳
33歳の若さで文章博士になり、立派な学者になりましたが、
常に日本人としての魂をもとにして、中国の学問を役立てることに努められました。
私が33歳の頃、というと、胆石で入院するちょっと前くらいでした。
会社ではこのままでいいのかと煮詰まり始め、転職活動を始めたころ。
結局そのときは転職活動もうまくいかず、それから10年以上経ってから
年齢の壁を感じながら転職したのですが、あ、また比較してしまった。(笑)
(五)名外交官
道真公 39歳
39歳の時、渤海国が朝廷に献上物を奉り、そのもてなし役として立派な歓迎の詩を作り
使者のみんなを感心させられました。
比較することさえ憚られますが(それでも比較しようとする(笑))
私の39歳といえば、もうブログを始めていたころですが出張することが増え、
JALに頻繁に乗るようになったころかなあ。
(六)情深い政治家
道真公 42歳 厄年ですね
42歳で讃岐守となり、四国におもむかれましたが、貧しき農民を哀れみ、
よい政治をされましたので、人々はその徳を慕いました。
文武両道で市井の人たちの気持ちも汲める人って、素晴らしいですね。
こんな人が今の時代、経営者として成功するのかもしれないな、と思いました。
(42歳の自分、あんまり覚えておりません)
(七)紅葉のにしき
何歳だったかな
百人一首の「このたびは ぬさもとりあへずたむけ山 紅葉の錦 神のまにまに」を
詠んだときの光景だそうです。(ジオラマの説明、メモなく失念)、
こうやって改めて見ても丁寧なつくり(博多人形だし、説明の文体も丁寧)で
楽しいですね。
って、まだ、順風満帆なところですが、明日に続きます。(^-^)
(つづく)
梅
道真公が5歳のときに
「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」と詠み、
11才で漢詩も作った、私は5歳の時何をしていたんだろうと思いました。
(比較すること自体が間違い(笑))
(二)お母さまの祈り
左がお母さま
わが子(道真公)が学問ができるよう、また、達者に成長するようにと
観音様に毎日お参りして祈りを捧げました。
うちの婆1号は、「ばかでも元気に育ってよかったよ」と私によく言うのですが、
確かに、勉強できなくてもそれなりに生活できているので凡庸な人生ながら
これはこれでいいのだと思います。(比較すること自体が間違いです(笑))
(三)文武の達人
道真公
幼いころから学問に加え弓道にも励み、26歳のときに都良香邸での弓の会で
百発百中の腕前で多くの人々を感動させられました。
道真公、文武両道です。
(四)文章博士
道真公 33歳
33歳の若さで文章博士になり、立派な学者になりましたが、
常に日本人としての魂をもとにして、中国の学問を役立てることに努められました。
私が33歳の頃、というと、胆石で入院するちょっと前くらいでした。
会社ではこのままでいいのかと煮詰まり始め、転職活動を始めたころ。
結局そのときは転職活動もうまくいかず、それから10年以上経ってから
年齢の壁を感じながら転職したのですが、あ、また比較してしまった。(笑)
(五)名外交官
道真公 39歳
39歳の時、渤海国が朝廷に献上物を奉り、そのもてなし役として立派な歓迎の詩を作り
使者のみんなを感心させられました。
比較することさえ憚られますが(それでも比較しようとする(笑))
私の39歳といえば、もうブログを始めていたころですが出張することが増え、
JALに頻繁に乗るようになったころかなあ。
(六)情深い政治家
道真公 42歳 厄年ですね
42歳で讃岐守となり、四国におもむかれましたが、貧しき農民を哀れみ、
よい政治をされましたので、人々はその徳を慕いました。
文武両道で市井の人たちの気持ちも汲める人って、素晴らしいですね。
こんな人が今の時代、経営者として成功するのかもしれないな、と思いました。
(42歳の自分、あんまり覚えておりません)
(七)紅葉のにしき
何歳だったかな
百人一首の「このたびは ぬさもとりあへずたむけ山 紅葉の錦 神のまにまに」を
詠んだときの光景だそうです。(ジオラマの説明、メモなく失念)、
こうやって改めて見ても丁寧なつくり(博多人形だし、説明の文体も丁寧)で
楽しいですね。
って、まだ、順風満帆なところですが、明日に続きます。(^-^)
(つづく)
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