京都旅行記2024Ⅲ~一休寺編~ [日本の旅(京都)]
正伝寺近くのカフェアルシェのオーナーさんに教えてもらった一休さんのお寺、
一休寺に汗だく状態で到着しました。(訪れたのは10月1日です⇐なぜ30℃(笑))
目の前に見えるのは多分法堂結構広いです
(とはいえ、あまりの暑さに今回は方丈のみ拝観しました)
お寺のホームページ:https://www.ikkyuji.org/
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%AC%E6%81%A9%E5%BA%B5
一休寺に汗だく状態で到着しました。(訪れたのは10月1日です⇐なぜ30℃(笑))
目の前に見えるのは多分法堂結構広いです
(とはいえ、あまりの暑さに今回は方丈のみ拝観しました)
お寺のホームページ:https://www.ikkyuji.org/
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%AC%E6%81%A9%E5%BA%B5
正式には、酬恩庵一休寺。
(以下wikiから抜粋)
正応年間(1288年 - 1293年)に南浦紹明(大応国師)が開いた妙勝寺が前身で、
元弘年間(1331年 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、
康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興、
宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。
一休は大徳寺の住持となってからも当庵から大徳寺へ通っている。
その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、
88歳で亡くなるまで森女(森侍者)とここで過ごし、
臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。
88歳といえば当時はかなりご長寿
婆1号(うつぼ母)も現在88歳なのですが、医療の発達もあるのでなんとかまだ
生活できているものの一休さんの時代はそうではなかったでしょうし、ご本人の
免疫力が凄かったのかな、と思いました。
読めない。。。
左が衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、右が諸悪莫作(しょあくまくさ)
一休和尚の筆になる七物通戒の偈(げ)の中の詞白でお釈迦様の弟子である
阿難尊者の作といわれ、意味は、数々の悪行をすることなく多くの善行をすれば
自然に心が清く美しくなるというお釈迦様の教えだそうです。
悪行しないで善行を。。
邪念渦巻く日々を過ごす私にも響くお言葉です。
紅葉の時期にはきれいなのかな、想像しながら方丈に向かいます。
方丈、の部分、入れ替えられるようになっています
後小松天皇皇子?
wikiを観たら後小松天皇の落胤と伝えられていると書いてありましたが、
一休さんってそういう人だったの???驚きました。
(この歳になっても知らないことがまだまだたくさんあります)
やっと到着
方丈に到着しました
最近けしからん人が多いのが残念ですね
外国人が京都のお寺の門にいたずら書きしたり、伏見稲荷でしたか、
鳥居にぶら下がって懸垂した南米人のニュースを観ましたが
そういう人は日本に来ないでほしい、と怒っている私です。ヽ(`Д´)ノプンプン
庫裏で拝観料を支払います
一緒に御朱印もお願いしましたが、種類が多くてさすがに全てとはいかず、
2種類だけお願いしました。
虎といえば一休さん
方丈に向かいます
方丈屋根獅子口
屋根に飾る棟飾りだそうですがどこか素朴な感じに思えました。お庭
石庭がとてもきれいです。
この方丈は一休さんがお亡くなりになった後、江戸時代に加賀三代目藩主前田利常の
寄進で再建されたものだそうです。(それでも築400年くらい?)
wikiにも書いてあった通り、ここから大徳寺まで通っていたということで
この輿を使っていたそうですが、本人よりも担いで運ぶ人が大変だった、、
光景を思い浮かべてしまう己がおりました。
狩野探幽の作品、実物は寺内の宝物殿に保管されているそうで、
方丈に飾られているのは複製です。
拝ませていただきました。
(木像自体は撮影禁止のため、説明書きを撮影しました(^-^;)
東庭&北庭
虎といえば一休さん
方丈をのんびり見学して汗が引いたところで外に出て、
東司 洗手間です
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外国人観光客もここまでくるのか、、英語表記にちょっと驚きました。
(以下wikiから抜粋)
正応年間(1288年 - 1293年)に南浦紹明(大応国師)が開いた妙勝寺が前身で、
元弘年間(1331年 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、
康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興、
宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。
一休は大徳寺の住持となってからも当庵から大徳寺へ通っている。
その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、
88歳で亡くなるまで森女(森侍者)とここで過ごし、
臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。
88歳といえば当時はかなりご長寿
婆1号(うつぼ母)も現在88歳なのですが、医療の発達もあるのでなんとかまだ
生活できているものの一休さんの時代はそうではなかったでしょうし、ご本人の
免疫力が凄かったのかな、と思いました。
読めない。。。
左が衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)、右が諸悪莫作(しょあくまくさ)
一休和尚の筆になる七物通戒の偈(げ)の中の詞白でお釈迦様の弟子である
阿難尊者の作といわれ、意味は、数々の悪行をすることなく多くの善行をすれば
自然に心が清く美しくなるというお釈迦様の教えだそうです。
悪行しないで善行を。。
邪念渦巻く日々を過ごす私にも響くお言葉です。
紅葉の時期にはきれいなのかな、想像しながら方丈に向かいます。
方丈、の部分、入れ替えられるようになっています
後小松天皇皇子?
wikiを観たら後小松天皇の落胤と伝えられていると書いてありましたが、
一休さんってそういう人だったの???驚きました。
(この歳になっても知らないことがまだまだたくさんあります)
やっと到着
方丈に到着しました
最近けしからん人が多いのが残念ですね
外国人が京都のお寺の門にいたずら書きしたり、伏見稲荷でしたか、
鳥居にぶら下がって懸垂した南米人のニュースを観ましたが
そういう人は日本に来ないでほしい、と怒っている私です。ヽ(`Д´)ノプンプン
庫裏で拝観料を支払います
一緒に御朱印もお願いしましたが、種類が多くてさすがに全てとはいかず、
2種類だけお願いしました。
虎といえば一休さん
方丈に向かいます
方丈屋根獅子口
屋根に飾る棟飾りだそうですがどこか素朴な感じに思えました。お庭
石庭がとてもきれいです。
この方丈は一休さんがお亡くなりになった後、江戸時代に加賀三代目藩主前田利常の
寄進で再建されたものだそうです。(それでも築400年くらい?)
wikiにも書いてあった通り、ここから大徳寺まで通っていたということで
この輿を使っていたそうですが、本人よりも担いで運ぶ人が大変だった、、
光景を思い浮かべてしまう己がおりました。
狩野探幽の作品、実物は寺内の宝物殿に保管されているそうで、
方丈に飾られているのは複製です。
拝ませていただきました。
(木像自体は撮影禁止のため、説明書きを撮影しました(^-^;)
東庭&北庭
虎といえば一休さん
方丈をのんびり見学して汗が引いたところで外に出て、
東司 洗手間です
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外国人観光客もここまでくるのか、、英語表記にちょっと驚きました。
説明を読んでも後小松天皇皇子ということで宮内庁の御陵墓として
菊の紋が門扉に描かれているんですね。。
この墓所の隣に虎丘庵という小さな建物があるのですが、一休さんはここで
晩年森女(森侍者)と過ごしていたということですが、wikiなどを読んでも
ちょっと破天荒な方だった印象を受けました。
とんちをきかせているアニメの一休さんのイメージしかなかった私も
ここにきてよかったなあ、と思いました。
帰りは正門から出ました
この後は、隣の城陽市に向かいます。
(つづく)
晩年森女(森侍者)と過ごしていたということですが、wikiなどを読んでも
ちょっと破天荒な方だった印象を受けました。
とんちをきかせているアニメの一休さんのイメージしかなかった私も
ここにきてよかったなあ、と思いました。
帰りは正門から出ました
この後は、隣の城陽市に向かいます。
(つづく)