青森旅行記2023~三沢航空科学館編④~ [日本の旅(東北)]
国産飛行機の歴史を観てきましたが、今度は戦後に造られた飛行機、
なんとなく自分の生きている時代に近づいてまいりました。(^-^)
結構大きいです
羽根の部分の説明書きは右の写真に書いてありますが、
左からタービン(羽車)、燃焼室、火災検知のライン、スターター。
あちこちガン見してしまいます。(笑)
戦後初の国産輸送機YS-11
ワイエスジュウイチと呼んでいたのですが、正式にはワイエスイチイチ。
YS-11の名前の由来は、輸送機設計研究会輸送(Y)、設計(S)、
エンジンと機体の設計でそれぞれ1番目の案を採用したことから
「11(イチイチ)」と命名されたそうです。
第二次世界大戦後、日本は航空機の開発・製造・研究を禁止されていたそうですが
1952年(昭和27年)の解禁に伴い、国産の旅客機を製造しようという気運が高まり、
1957年(昭和32年)五戸町出身で航研機を設計された木村秀政博士(日大教授)が
技術委員長に、戦時中数々の傑作機を設計した人々が集められ、
(財)輸送機設計研究協会が設立され、1958年(昭和33年)から開発開始、
1959年(昭和34年)、日本航空機製造㈱が設立されてYS-11の開発が引き継がれ、
本格的な設計・製造が開始されました。
1962年(昭和37年)試作1号機が初飛行、1965年(昭和40年)、
初の国産実用機として国内線に就航、1973年(昭和48年)まで182機が生産され、
アメリカをはじめ世界の航空会社に採用され好評を博したそうです。
中山秀政博士
1973年まで生産されて海外にも好評を博していたのに、
この後、後継機が開発・製造されなかった理由ってなんでしょうね。
当時、私は幼稚園から小学校、という頃ですが、
その後(1976年)に金のピーナツ事件があった記憶がぼんやりあって
記憶にございません、とか、国会証人喚問で手が震えちゃったおじさん、とか、
ハチの一刺し、とか、そんなことを思い出したので、
アメリカの航空機メーカーと内閣(というか総理大臣)の密約が国内生産を
継続させないきっかけになったのかな、と思ってwikiを観ると(生産終了の項目)、
安定的な販売網が構築される前に売上が鈍化した理由として、
海外販売で強豪国並みの長期繰延低金利で対抗せざるを得ず、
第二次大戦後の国産初飛行機という実績不足で足元を観られての原価割れ販売、
初期コストに販促費などの営業関連費用を盛り込まず原価管理が杜撰、
寄せ集め集団で責任所在が不明瞭、変動相場制移行で海外販売で為替差損発生、
(1ドル=360円から円高になったら大変ですよね)
アメリカでの営業活動で代理店の不正取引が問題になり(会計監査院から指摘)、
特に海外販売分に充分な製品サポートが出来ず、欠航が相次ぐことで信頼低下し、
リース料支払い拒否され訴訟を起こされる事例(インドネシアのプラーク航空)、
などなど書いてあったのですが、モノは良くても経営が十分でないと、
適正な価格で販売して収益を上げて(お金をうまく回す)健全な経営には程遠い、
これでは生産打ち切りもやむなしなのかな、と思いました。
時節柄、タラップを上って機内を見学することができませんでした。( ノД`)
のぼりたかった。。。
ルリー
JACは日本エアコミューター(東亜国内航空と鹿児島県奄美群島が出資)で、
このルリーは奄美群島のルリカケスをイメージしたキャラクターなのでしょうね。
説明によれば、展示されているYS-11A-500型機(JA8776 製造番号2157)は、
1971年(昭和46年)5月、日本航空機製造㈱(NAMC)で製造され、
東亜国内航空で愛称「しれとこ」として就航し、2002年(平成14年)11月18日まで、
日本エアーコミューターで、鹿児島~屋久島・種子島・奄美大島・沖永良部島・
与論・福岡/福岡~高松・徳島・高知・出雲/出雲~隠岐/伊丹~隠岐の12路線を
運航し、2002年(平成14年)11月25日、31年の就航を終え、
青森県立三沢航空科学館への展示のために三沢空港に飛来したのがラストフライトと
なりました。総飛行時間は59,451時間22分、フライトサイクルは60,942回。
短距離路線が多かったと思いますが、31年間飛び続けた飛行機、お疲れ様です。尾翼の形
今のジャンボジェット機とは違ってどこか穏やかな感じです。
羽田から沖どめB737に乗ってきたあと、三沢でも沖どめ(風)の旅客機を
観ることが思わずニヤニヤしながら見学していたおばちゃん(私)ですが、
次は体験コーナーに進みます。
(つづく)
なんとなく自分の生きている時代に近づいてまいりました。(^-^)
結構大きいです
羽根の部分の説明書きは右の写真に書いてありますが、
左からタービン(羽車)、燃焼室、火災検知のライン、スターター。
あちこちガン見してしまいます。(笑)
戦後初の国産輸送機YS-11
ワイエスジュウイチと呼んでいたのですが、正式にはワイエスイチイチ。
YS-11の名前の由来は、輸送機設計研究会輸送(Y)、設計(S)、
エンジンと機体の設計でそれぞれ1番目の案を採用したことから
「11(イチイチ)」と命名されたそうです。
第二次世界大戦後、日本は航空機の開発・製造・研究を禁止されていたそうですが
1952年(昭和27年)の解禁に伴い、国産の旅客機を製造しようという気運が高まり、
1957年(昭和32年)五戸町出身で航研機を設計された木村秀政博士(日大教授)が
技術委員長に、戦時中数々の傑作機を設計した人々が集められ、
(財)輸送機設計研究協会が設立され、1958年(昭和33年)から開発開始、
1959年(昭和34年)、日本航空機製造㈱が設立されてYS-11の開発が引き継がれ、
本格的な設計・製造が開始されました。
1962年(昭和37年)試作1号機が初飛行、1965年(昭和40年)、
初の国産実用機として国内線に就航、1973年(昭和48年)まで182機が生産され、
アメリカをはじめ世界の航空会社に採用され好評を博したそうです。
中山秀政博士
1973年まで生産されて海外にも好評を博していたのに、
この後、後継機が開発・製造されなかった理由ってなんでしょうね。
当時、私は幼稚園から小学校、という頃ですが、
その後(1976年)に金のピーナツ事件があった記憶がぼんやりあって
記憶にございません、とか、国会証人喚問で手が震えちゃったおじさん、とか、
ハチの一刺し、とか、そんなことを思い出したので、
アメリカの航空機メーカーと内閣(というか総理大臣)の密約が国内生産を
継続させないきっかけになったのかな、と思ってwikiを観ると(生産終了の項目)、
安定的な販売網が構築される前に売上が鈍化した理由として、
海外販売で強豪国並みの長期繰延低金利で対抗せざるを得ず、
第二次大戦後の国産初飛行機という実績不足で足元を観られての原価割れ販売、
初期コストに販促費などの営業関連費用を盛り込まず原価管理が杜撰、
寄せ集め集団で責任所在が不明瞭、変動相場制移行で海外販売で為替差損発生、
(1ドル=360円から円高になったら大変ですよね)
アメリカでの営業活動で代理店の不正取引が問題になり(会計監査院から指摘)、
特に海外販売分に充分な製品サポートが出来ず、欠航が相次ぐことで信頼低下し、
リース料支払い拒否され訴訟を起こされる事例(インドネシアのプラーク航空)、
などなど書いてあったのですが、モノは良くても経営が十分でないと、
適正な価格で販売して収益を上げて(お金をうまく回す)健全な経営には程遠い、
これでは生産打ち切りもやむなしなのかな、と思いました。
時節柄、タラップを上って機内を見学することができませんでした。( ノД`)
のぼりたかった。。。
ルリー
JACは日本エアコミューター(東亜国内航空と鹿児島県奄美群島が出資)で、
このルリーは奄美群島のルリカケスをイメージしたキャラクターなのでしょうね。
説明によれば、展示されているYS-11A-500型機(JA8776 製造番号2157)は、
1971年(昭和46年)5月、日本航空機製造㈱(NAMC)で製造され、
東亜国内航空で愛称「しれとこ」として就航し、2002年(平成14年)11月18日まで、
日本エアーコミューターで、鹿児島~屋久島・種子島・奄美大島・沖永良部島・
与論・福岡/福岡~高松・徳島・高知・出雲/出雲~隠岐/伊丹~隠岐の12路線を
運航し、2002年(平成14年)11月25日、31年の就航を終え、
青森県立三沢航空科学館への展示のために三沢空港に飛来したのがラストフライトと
なりました。総飛行時間は59,451時間22分、フライトサイクルは60,942回。
短距離路線が多かったと思いますが、31年間飛び続けた飛行機、お疲れ様です。尾翼の形
今のジャンボジェット機とは違ってどこか穏やかな感じです。
羽田から沖どめB737に乗ってきたあと、三沢でも沖どめ(風)の旅客機を
観ることが思わずニヤニヤしながら見学していたおばちゃん(私)ですが、
次は体験コーナーに進みます。
(つづく)