京都旅行記2022Ⅱ~京セラ美術館で「アンディ・ウォーホル・キョウト展」③~ [日本の旅(京都)]
引っ張って書いていますが、あと2回くらい続きます。
(章ごとに分けて書いた方が自分が分かりやすいので)
第1章、第2章と進んできて第3章までやってまいりました。
【第3章】『ポップ・アーティスト』ウォーホルの誕生
ポップ・アート旋風が全米に吹き荒れる中、ウォーホルはこの新しい動きのリーダー的
存在となります。アメリカの美術館はこぞってポップがテーマの展覧会を開催し、
ウォーホルはどの展覧会にも登場し、1963年にはマンハッタンの東47丁目231番地に
新しいスタジオを構えます。
銀色に装飾されたこのスペースは、制作の場であると同時に仲間たちの溜まり場であり、
いみじくも「ファクトリー」と命名されました。
翌1964年、ステイブル・ギャラリーでのウォーホルの個展の開幕後にお披露目された
ファクトリーは、たちまちポップの震源地となっていきます。
当時のシルクスクリーン印刷によるウォーホルのキャンバス画や版画作品は、
「機械生産」されたように見え、消費社会の日常や社会的事件が描かれ、
マスメディアの影響力を認知していたウォーホルは、自作に鑑賞者の注意を引き寄せるべく
同じ手法を用いました。
ウォーホルの創作活動は、その後も何十年とファッション、音楽、映画、出版など、
他のクリエイティブな産業と結びつき、海外の観客にもアピールしていき、
1970年代から80年代にかけて注文制作による肖像画の受注は引きも切らず、
企業との連携によるプロジェクトの需要も大きいものでした。
(章ごとに分けて書いた方が自分が分かりやすいので)
第1章、第2章と進んできて第3章までやってまいりました。
【第3章】『ポップ・アーティスト』ウォーホルの誕生
ポップ・アート旋風が全米に吹き荒れる中、ウォーホルはこの新しい動きのリーダー的
存在となります。アメリカの美術館はこぞってポップがテーマの展覧会を開催し、
ウォーホルはどの展覧会にも登場し、1963年にはマンハッタンの東47丁目231番地に
新しいスタジオを構えます。
銀色に装飾されたこのスペースは、制作の場であると同時に仲間たちの溜まり場であり、
いみじくも「ファクトリー」と命名されました。
翌1964年、ステイブル・ギャラリーでのウォーホルの個展の開幕後にお披露目された
ファクトリーは、たちまちポップの震源地となっていきます。
当時のシルクスクリーン印刷によるウォーホルのキャンバス画や版画作品は、
「機械生産」されたように見え、消費社会の日常や社会的事件が描かれ、
マスメディアの影響力を認知していたウォーホルは、自作に鑑賞者の注意を引き寄せるべく
同じ手法を用いました。
ウォーホルの創作活動は、その後も何十年とファッション、音楽、映画、出版など、
他のクリエイティブな産業と結びつき、海外の観客にもアピールしていき、
1970年代から80年代にかけて注文制作による肖像画の受注は引きも切らず、
企業との連携によるプロジェクトの需要も大きいものでした。
このポートレートにウォーホルの言葉が書いてあったのですが、
「金は金。
汗を出して手に入れたか楽に入った金かどうでもいい。
使うときは同じだ。」
悪銭身に付かず、と真逆な感じの言葉、こういうところもウォーホルらしいのかも
しれませんね。(私自身は頑張って得たお金は大事に使う庶民です)
久しぶりに直に観るキャンベルスープ缶、迫力あります。
スープ缶の向かいには肖像画
王子に教授アレサにスタローン、そして毛沢東。
ウォーホルのファッション
ウィッグを被っていたんですよね。
(最初にウォーホルを知った頃は白髪のおじいさんだと思っていました)
「銀の雲」という映像やバルーンで装飾された作品を観て、
肖像画制作のために撮られた写真
(個人的には久しぶりに観たグレース・ジョーンズのお姿がツボでした)
ファクトリーで様々な人(キース・へリングとも交流あったんですよね)と
交流し、ポップ・アートの作品を作り出していったウォーホル、
これだけの作品を観るとやはりテンションが上がります。(^-^)
この後は、晩年のウォーホルの展示に続きます。
(つづく)
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