青森旅行記2022~八甲田山雪中行軍遭難資料館編②~ [日本の旅(東北)]
昨日の記事はタイトルの割に資料館の入口に到着して終わってしまったのですが
今回は中の展示内容もご紹介します。
(念のためwikiも)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
入口のスクリーンでこの遭難事件についての概要が映像で紹介されるので、
一通りの知識を頭に入れてから見学できるのですが、入口にいらしゃった後藤伍長は遭難し
直立したまま仮死状態で発見された後、残念ながら凍傷で両手両足を切断されたそうですが、
その後、故郷で村会議員として活躍されたそうです。
明治時代、対ロシアを想定して厳寒地での訓練を同時期に行ったのが2つの歩兵連隊、
(それぞれ違うルートでしたし、意図的に同時に訓練を行ったわけではないようですね)
弘前歩行第31連隊(弘前隊)は無事に目的地に到着し、
青森歩兵第5連隊(青森隊)は遭難し210名のうち199名が命を落としたのはなぜ?と
思ったのですが、弘前隊は青森隊より長距離を移動したものの、雪中行軍に関する服装や
行軍方法等の研究の総仕上げとして3年がかりで実施した演習の総決算(雪慣れしている)、
一方、青森隊は雪慣れしていない上に、ロシア侵攻で列車輸送ができなくなった場合に、
人力ソリで物資を運搬できるか、調査するための訓練、大きな違いがありました。
ただ、訓練初日、地元民が中止を進言してどうしてもいくなら案内するというのを断って
地図と方位磁石で訓練を強行したという説明を見ても、軍人のプライドをかけて、みたいな
こともあったのかな(得に身分の高い上官)と思いました。
途中、悪天候に見舞われて目的達成と判断して帰営するはずが方位磁石も使えず遭難、
結果として多くの死者を出してしまったように思えました。
遭難した青森隊の方が弘前隊よりずっと人数も多く(3倍くらい)、
運搬の代替検証もあったので荷物がやたら多いなと思ったのですが、
今回は中の展示内容もご紹介します。
(念のためwikiも)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
入口のスクリーンでこの遭難事件についての概要が映像で紹介されるので、
一通りの知識を頭に入れてから見学できるのですが、入口にいらしゃった後藤伍長は遭難し
直立したまま仮死状態で発見された後、残念ながら凍傷で両手両足を切断されたそうですが、
その後、故郷で村会議員として活躍されたそうです。
明治時代、対ロシアを想定して厳寒地での訓練を同時期に行ったのが2つの歩兵連隊、
(それぞれ違うルートでしたし、意図的に同時に訓練を行ったわけではないようですね)
弘前歩行第31連隊(弘前隊)は無事に目的地に到着し、
青森歩兵第5連隊(青森隊)は遭難し210名のうち199名が命を落としたのはなぜ?と
思ったのですが、弘前隊は青森隊より長距離を移動したものの、雪中行軍に関する服装や
行軍方法等の研究の総仕上げとして3年がかりで実施した演習の総決算(雪慣れしている)、
一方、青森隊は雪慣れしていない上に、ロシア侵攻で列車輸送ができなくなった場合に、
人力ソリで物資を運搬できるか、調査するための訓練、大きな違いがありました。
ただ、訓練初日、地元民が中止を進言してどうしてもいくなら案内するというのを断って
地図と方位磁石で訓練を強行したという説明を見ても、軍人のプライドをかけて、みたいな
こともあったのかな(得に身分の高い上官)と思いました。
途中、悪天候に見舞われて目的達成と判断して帰営するはずが方位磁石も使えず遭難、
結果として多くの死者を出してしまったように思えました。
遭難した青森隊の方が弘前隊よりずっと人数も多く(3倍くらい)、
運搬の代替検証もあったので荷物がやたら多いなと思ったのですが、
米や牛肉缶 酒に鍋に薪
これらをソリで運ぶ下士官、普通に運ぶだけでも大変なのに吹雪では、
本隊より遅れて到着したという記録を見てもそりゃそうだろうと思ってしまいます。
これらをソリで運ぶ下士官、普通に運ぶだけでも大変なのに吹雪では、
本隊より遅れて到着したという記録を見てもそりゃそうだろうと思ってしまいます。
吹雪の中こうやって運ぶなんて過酷です
こんな時になんで日本酒を大量に運ぶんだよ、という疑問もあったのですが、
過酷な訓練の途中でも何かしらご褒美的なものがあった方がよいという判断なのかも、
でもそれをご褒美でもらう下士官が運ぶというのもなんだか酷な話ではないのかな、
と、途中から運搬担当の下士官たちが業務放棄したという記述も納得できました。
二隊のルート
無事だった弘前隊(グリーンの線)の方が物凄い長距離を歩いたのが分かります。
青森隊(オレンジ色の線)は悪天候に見舞われて短い距離で隊がばらけてしまい、
その後遭難したわけですが、訓練の初期判断で誤ったのでないかとこの地図からも
感じました。
訓練では運んだ物資
運搬隊が引いたソリ14台に、精米一石二斗六升(約227㎏)、缶詰肉35貫(約131㎏)、
漬物6貫(約23㎏)、清酒二斗(約36ℓ)が積まれたという説明がありましたが、
200人超の訓練用とはいえ運ぶ人は本当に大変だったろうと思ってしまいました。
このほかにも各自が出発当日の昼食を飯盒に、小食用に餅3食分(6個)の携帯が
命じられていたそうなので、訓練には十分だったはずが悪天候で炊飯さえも大変で
生煮えの食事が真夜中に出来上がって配給されたという説明もありました。凍傷を防ぐための注意が多い
どれだけ寒い中での訓練かがうかがえますね。
当時の服装
現在の訓練時はスキーが使用されているとか
着て写真が撮れるのですが
なんとなくこういう説明を読んでしまうと悲しい気持ちになってしまい、
(どっちみち一人で行動しているので写真を撮ることはないのですが)
ここでコスプレする人がどれだけいるんだろうというと思ってしまいますね。
当時の隊員が履いていたのは藁靴
履いているときは暖かいが、立ち止まると付着した雪が固まって
凍傷になりやすいという説明でした。
革靴
革靴を履いていた隊員全員が凍傷になってしまったそうですが、
藁よりも保温性がないというのも凍傷になってしまう原因なのかもしれませんね。
ゴム長靴
救出された倉石大尉が履いていたものの複製ですが、
東京で買ったゴム長靴を履いていたお陰で凍傷にならなかったそうです。
油紙と唐辛子
凍傷を防ぐ手段として足の指に唐辛子を砕いたものを付けて油紙をまく、
という説明でしたが、暖かくなったとしても指が唐辛子で痛かったのではないか、
現代の防寒用のカイロなどを考えると100年以上前とはえ、こういう方法で凍傷を
防ごうとして防ぎきれなかったであろう様子を想像してしまいました。
雪濠
青森隊は露営する際、小隊に分かれて幅2m、長さ5.5m、深さ約2.5mの壕を掘った
そうですが、天井を覆うことが出来ず、厳しい寒さが襲ってくる上に、
地面まで掘れなかったため、壕の中で炊事をする際も雪が溶けて炊飯用具が傾いてしまい
非常に困難だったという説明でした。
この壕を掘るだけでも大変で、その壕に入ってからも大変で炊事も困難、と
遭難していく結果を知っていても切ない気持ちになってしまいますね。 携行品
水筒や手帳の他に規則などの他に肩章なんてものもありました。
肩章で位を示す、前職でも工場などは帽子の線の太さや数で位を示していましたが
(さすがに現在は廃止されたようですが)
肩章で高い位を示せても自然災害の前には成す術なし、なんでしょうね。
救出された倉石大尉(ゴム長靴で凍傷を免れた)と伊藤中尉は
その後、遭難談や講演を行ったそうです。
青森隊のルートが記されたジオラマ
迷走経路がたくさんありました(;_:)
アイヌの方が捜索に協力、活躍されていたことを今回の資料館で知りました。
雪深い山や危険な川岸を奔走して11のご遺体と夥しい数の武器装具(青森隊が遺棄)を
発見されたそうです。
生存者の日記や、亡くなった方の葬儀で読まれた弔辞などと
遭難始末附録(事故の半年後の慰霊祭で発行されたもの)の展示を見て、
責任者の山口少佐
救助された後、病院に収容され翌日亡くなったそうですが、
死因が心臓麻痺と発表されたものの、ピストルで自殺したのでは、という説もあり、
ただ、凍傷の指で引き金は引けないのではという疑問もあるので、
陸軍が遭難事件の責任追及から逃れるために指揮官の山口少佐を薬殺したのでは、
という説が現在は有力とのことでした。
事実は生存者から聞くしかないとはいえ、あまりにも多くの犠牲者を出した遭難事件、
映画も見たことがなかったのですが、今回の資料館見学で事件について知ることができて
訪問してよかった(とても悲しい気持ちになりましたが)、映画もいずれ鑑賞してみたいと
思いつつ資料館の職員の方にお礼を言って(預けた荷物も受け取り)後にしました。
あとは、飛行機に乗って帰るだけ~。
(つづく)
こんな時になんで日本酒を大量に運ぶんだよ、という疑問もあったのですが、
過酷な訓練の途中でも何かしらご褒美的なものがあった方がよいという判断なのかも、
でもそれをご褒美でもらう下士官が運ぶというのもなんだか酷な話ではないのかな、
と、途中から運搬担当の下士官たちが業務放棄したという記述も納得できました。
二隊のルート
無事だった弘前隊(グリーンの線)の方が物凄い長距離を歩いたのが分かります。
青森隊(オレンジ色の線)は悪天候に見舞われて短い距離で隊がばらけてしまい、
その後遭難したわけですが、訓練の初期判断で誤ったのでないかとこの地図からも
感じました。
訓練では運んだ物資
運搬隊が引いたソリ14台に、精米一石二斗六升(約227㎏)、缶詰肉35貫(約131㎏)、
漬物6貫(約23㎏)、清酒二斗(約36ℓ)が積まれたという説明がありましたが、
200人超の訓練用とはいえ運ぶ人は本当に大変だったろうと思ってしまいました。
このほかにも各自が出発当日の昼食を飯盒に、小食用に餅3食分(6個)の携帯が
命じられていたそうなので、訓練には十分だったはずが悪天候で炊飯さえも大変で
生煮えの食事が真夜中に出来上がって配給されたという説明もありました。凍傷を防ぐための注意が多い
どれだけ寒い中での訓練かがうかがえますね。
当時の服装
現在の訓練時はスキーが使用されているとか
着て写真が撮れるのですが
なんとなくこういう説明を読んでしまうと悲しい気持ちになってしまい、
(どっちみち一人で行動しているので写真を撮ることはないのですが)
ここでコスプレする人がどれだけいるんだろうというと思ってしまいますね。
当時の隊員が履いていたのは藁靴
履いているときは暖かいが、立ち止まると付着した雪が固まって
凍傷になりやすいという説明でした。
革靴
革靴を履いていた隊員全員が凍傷になってしまったそうですが、
藁よりも保温性がないというのも凍傷になってしまう原因なのかもしれませんね。
ゴム長靴
救出された倉石大尉が履いていたものの複製ですが、
東京で買ったゴム長靴を履いていたお陰で凍傷にならなかったそうです。
油紙と唐辛子
凍傷を防ぐ手段として足の指に唐辛子を砕いたものを付けて油紙をまく、
という説明でしたが、暖かくなったとしても指が唐辛子で痛かったのではないか、
現代の防寒用のカイロなどを考えると100年以上前とはえ、こういう方法で凍傷を
防ごうとして防ぎきれなかったであろう様子を想像してしまいました。
雪濠
青森隊は露営する際、小隊に分かれて幅2m、長さ5.5m、深さ約2.5mの壕を掘った
そうですが、天井を覆うことが出来ず、厳しい寒さが襲ってくる上に、
地面まで掘れなかったため、壕の中で炊事をする際も雪が溶けて炊飯用具が傾いてしまい
非常に困難だったという説明でした。
この壕を掘るだけでも大変で、その壕に入ってからも大変で炊事も困難、と
遭難していく結果を知っていても切ない気持ちになってしまいますね。 携行品
水筒や手帳の他に規則などの他に肩章なんてものもありました。
肩章で位を示す、前職でも工場などは帽子の線の太さや数で位を示していましたが
(さすがに現在は廃止されたようですが)
肩章で高い位を示せても自然災害の前には成す術なし、なんでしょうね。
救出された倉石大尉(ゴム長靴で凍傷を免れた)と伊藤中尉は
その後、遭難談や講演を行ったそうです。
青森隊のルートが記されたジオラマ
迷走経路がたくさんありました(;_:)
アイヌの方が捜索に協力、活躍されていたことを今回の資料館で知りました。
雪深い山や危険な川岸を奔走して11のご遺体と夥しい数の武器装具(青森隊が遺棄)を
発見されたそうです。
生存者の日記や、亡くなった方の葬儀で読まれた弔辞などと
遭難始末附録(事故の半年後の慰霊祭で発行されたもの)の展示を見て、
責任者の山口少佐
救助された後、病院に収容され翌日亡くなったそうですが、
死因が心臓麻痺と発表されたものの、ピストルで自殺したのでは、という説もあり、
ただ、凍傷の指で引き金は引けないのではという疑問もあるので、
陸軍が遭難事件の責任追及から逃れるために指揮官の山口少佐を薬殺したのでは、
という説が現在は有力とのことでした。
事実は生存者から聞くしかないとはいえ、あまりにも多くの犠牲者を出した遭難事件、
映画も見たことがなかったのですが、今回の資料館見学で事件について知ることができて
訪問してよかった(とても悲しい気持ちになりましたが)、映画もいずれ鑑賞してみたいと
思いつつ資料館の職員の方にお礼を言って(預けた荷物も受け取り)後にしました。
あとは、飛行機に乗って帰るだけ~。
(つづく)
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