京都旅行記2022~京都仙洞御所編②~ [日本の旅(京都)]
ガイドの三瓶さんのご案内で見学する京都仙洞御所の続きは、北池から。
六枚橋(滑り止め防止なのか筵が敷いてあった)
切石を6枚並べたのでそのまま名付けられた橋。
この橋がかかっているところに入江の阿古瀬ヶ淵があるのですが、その北に
六枚橋(滑り止め防止なのか筵が敷いてあった)
切石を6枚並べたのでそのまま名付けられた橋。
この橋がかかっているところに入江の阿古瀬ヶ淵があるのですが、その北に
小高い丘
と、石碑
紀貫之の邸宅跡を示す石碑だそうですが建立されたのは明治8年。
紀貫之の幼少名(あこくそ)に因んで阿古瀬ヶ淵(あこせがふち)と名付けられたそうで、
あこくそ(阿古久曽)、と、 鬼が我が子に目をつけないように不浄の名前をつけたという
三瓶さんの説明にかつて自分の子供に(キラキラネームとか流行るずっと前)悪〇という
名前をつけようとした親のニュースを思い出しました。(もうかなり昔の話ですが)
紀貫之の親とこの親、全然違うんですけれどね。。
碑には「紀氏遺蹟碑」と書いてあるそうですがスマホをズームにしてもよく見えず、
おまけに、紀貫之、土佐日記を書いた人、というレベルの知識の私には名前を聞いて
あ、その人知ってる!という反応で終了となりました。
晴れててよかった
鎮守社 赤いお社が遠くに見えます
菊の御紋の橋を渡りよく見ると
青鷺
置き物のように多くの鷺が休んでいる様子を見ましたが、
それだけこの庭は鷺にとっても安全な場所なんでしょうね。
(苑内に鷺島とか鷺の森と言われるエリアがあるくらいですし)
これが紅葉の時期だったらなあ。
北池をぐるっと一周したら、今度は南池方面に向かって歩いてから
八つ橋(上右の写真)を渡ります。
藤棚の季節には早すぎました。(梅にも早すぎた時期です)
以前は細い橋脚一本で支えてる橋だったそうですが、耐久性に問題ありきから石に変更し、
見た目の印象を和らげるために藤棚を設置したという説明だったような記憶です。
藤棚がきれいな季節、ブログ友の記事の写真で楽しむのみで自分の目で直に見る機会が
ほとんどないのですが、一度くらいは満開の藤が美しく咲く藤棚を見たいものです。
と、八つ橋を渡ると、
遠くの方に滝
雄滝?(たぶん)
その近くのこの石
草紙洗の石(そうしあらいのいし)と呼ばれる三畳敷きほどもある大きな平石で、
この石に関連した小野小町と大伴黒主のエピソードが紹介されたのですが、
大伴黒主が宮中の歌合せで小野小町を妬んで小町の歌が万葉集に載っていると
訴えたところ、小町がその万葉集をここの水で洗って、歌が書き加えられたことを
証明したという話ですが、いつの世も他人の才能を妬んで不正を働いてしまう人が
いるもんなんだなあ、と思いました。
南池
州浜
石は神奈川県から献上されたもので、石一つで米一升が与えられたそうで、
12万個集まったとか。
亀ものんびり
灯籠
左は織部灯籠だったかな、写真を撮っても記憶がないのはダメですね。
醒花亭(せいかてい)
李白から命名したと聞いた記憶ですが、李白の何から命名したかは記憶なし。( 一一)
こけら葺きでベンガラ色は後水尾上皇のお好みだったとか。
見かけた額(なんだっけ)
織部灯籠だったような記憶。
柿本社
柿本人麻呂が亡くなってから作られた神社で、
火を止めそうな名前にかけて(どのあたりがそうなのかは謎)
防火のご信仰のために建てたという説明だったと記憶しています。
空を見上げて晴れてよかったなあと思って撮った写真と思われますが、
のんびりした気分で三瓶さんにくっついて南池も見学したところで、
そろそろ見学も終わりに近づいてまいりました。
工事中
又新亭(ゆうしんてい)外腰掛
明治17年、近衛家から献上された茶室だそうですが、桂離宮に続いてこちらでも
改修中の建物があってちょっと残念。
と思ったら
又新亭は外腰掛の向こうにあってそのまま観ることが出来ました。
茅葺とこけら葺きの屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門で内露地と外露地に
隔てられ、四ツ目垣で囲むように結界を設けているという説明でした。
(上の写真で竹を交差させてある垣根が四ツ目垣)
天皇陛下がいらっしゃるとご自分で池で船を漕がれるんですよ、という説明に、
陛下が漕いでいるお姿を想像したのですが、心安らぐひと時なのかもしれませんね。
三瓶さんのガイドで50分くらいでしたが、機会があれば違う季節にも訪れてみたい、
と思える京都仙洞御所でした。(桂離宮も修学院離宮も機会があればぜひ再訪したい)
朝一番に宮内庁のお庭を眺めて和んだ後は、売店でお土産を買って、
ちょっと遠くまで足をのばします。
(つづく)
と、石碑
紀貫之の邸宅跡を示す石碑だそうですが建立されたのは明治8年。
紀貫之の幼少名(あこくそ)に因んで阿古瀬ヶ淵(あこせがふち)と名付けられたそうで、
あこくそ(阿古久曽)、と、
三瓶さんの説明にかつて自分の子供に(キラキラネームとか流行るずっと前)悪〇という
名前をつけようとした親のニュースを思い出しました。(もうかなり昔の話ですが)
紀貫之の親とこの親、全然違うんですけれどね。。
碑には「紀氏遺蹟碑」と書いてあるそうですがスマホをズームにしてもよく見えず、
おまけに、紀貫之、土佐日記を書いた人、というレベルの知識の私には名前を聞いて
あ、その人知ってる!という反応で終了となりました。
晴れててよかった
鎮守社 赤いお社が遠くに見えます
菊の御紋の橋を渡りよく見ると
青鷺
置き物のように多くの鷺が休んでいる様子を見ましたが、
それだけこの庭は鷺にとっても安全な場所なんでしょうね。
(苑内に鷺島とか鷺の森と言われるエリアがあるくらいですし)
これが紅葉の時期だったらなあ。
北池をぐるっと一周したら、今度は南池方面に向かって歩いてから
八つ橋(上右の写真)を渡ります。
藤棚の季節には早すぎました。(梅にも早すぎた時期です)
以前は細い橋脚一本で支えてる橋だったそうですが、耐久性に問題ありきから石に変更し、
見た目の印象を和らげるために藤棚を設置したという説明だったような記憶です。
藤棚がきれいな季節、ブログ友の記事の写真で楽しむのみで自分の目で直に見る機会が
ほとんどないのですが、一度くらいは満開の藤が美しく咲く藤棚を見たいものです。
と、八つ橋を渡ると、
遠くの方に滝
雄滝?(たぶん)
その近くのこの石
草紙洗の石(そうしあらいのいし)と呼ばれる三畳敷きほどもある大きな平石で、
この石に関連した小野小町と大伴黒主のエピソードが紹介されたのですが、
大伴黒主が宮中の歌合せで小野小町を妬んで小町の歌が万葉集に載っていると
訴えたところ、小町がその万葉集をここの水で洗って、歌が書き加えられたことを
証明したという話ですが、いつの世も他人の才能を妬んで不正を働いてしまう人が
いるもんなんだなあ、と思いました。
南池
州浜
石は神奈川県から献上されたもので、石一つで米一升が与えられたそうで、
12万個集まったとか。
亀ものんびり
灯籠
左は織部灯籠だったかな、写真を撮っても記憶がないのはダメですね。
醒花亭(せいかてい)
李白から命名したと聞いた記憶ですが、李白の何から命名したかは記憶なし。( 一一)
こけら葺きでベンガラ色は後水尾上皇のお好みだったとか。
見かけた額(なんだっけ)
織部灯籠だったような記憶。
柿本社
柿本人麻呂が亡くなってから作られた神社で、
火を止めそうな名前にかけて(どのあたりがそうなのかは謎)
防火のご信仰のために建てたという説明だったと記憶しています。
空を見上げて晴れてよかったなあと思って撮った写真と思われますが、
のんびりした気分で三瓶さんにくっついて南池も見学したところで、
そろそろ見学も終わりに近づいてまいりました。
工事中
又新亭(ゆうしんてい)外腰掛
明治17年、近衛家から献上された茶室だそうですが、桂離宮に続いてこちらでも
改修中の建物があってちょっと残念。
と思ったら
又新亭は外腰掛の向こうにあってそのまま観ることが出来ました。
茅葺とこけら葺きの屋根と大きな丸窓を備えた茶室で、中門で内露地と外露地に
隔てられ、四ツ目垣で囲むように結界を設けているという説明でした。
(上の写真で竹を交差させてある垣根が四ツ目垣)
天皇陛下がいらっしゃるとご自分で池で船を漕がれるんですよ、という説明に、
陛下が漕いでいるお姿を想像したのですが、心安らぐひと時なのかもしれませんね。
三瓶さんのガイドで50分くらいでしたが、機会があれば違う季節にも訪れてみたい、
と思える京都仙洞御所でした。(桂離宮も修学院離宮も機会があればぜひ再訪したい)
朝一番に宮内庁のお庭を眺めて和んだ後は、売店でお土産を買って、
ちょっと遠くまで足をのばします。
(つづく)
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