SSブログ

父の詫び状① [いろいろ②]

暮れも暮れてときにナンですが、、年内に、、、と思ってアップすることにしました。



 

初秋のある日、うつぼ父、旅立っていきました。


以前からブログを読んでいただいている方は何となく察していらっしゃると思いますが、
私は父がずっと嫌いでした。


でもね、嫌いだった人でも親は親。


旅立つ父を見送ったことは今後の私にとって大きな経験となるでしょうし、
それを忘れたくないのもあって、今回ブログに記憶を書き残すことにしました。




父が嫌いな理由は、、、、
とてもブログに書ききれるものではありませんし、そんなことを書くほど子供じゃないし、
おそらく、父親が嫌いな世の女性と根本的な理由は同じ、、かと思いますので、
想像していただける部分はあろうかと思います。。。






私の父は、いわゆる戦中派なのですが、定年前に心疾患で手術を経験し、
その後、会社を退職した後、旅行に行ったりパソコン教室に行ったり、、
色々と彼なりに仕事人間からの脱皮を図ろうとしていたようでした。


それが、今から10年ちょっと前、脳疾患で倒れてからというもの、
入院、リハビリ、、退院、、、した後、、、、状態は徐徐に悪くなっていき、、
もちろん本人は大変だったと思うのですが、
その間、自宅介護をしていた母にしてみればある意味苦行のようなものだったというか、
いつまでこんな状態が続いて母が疲弊していくのかな、なんてずっと思っていました。


父にしてみれば、仕事人間、世代的には家庭を省みずに働いて家族を養う、
それが男の甲斐性、でしたので、、、自分が病気になったのも家族の為に働き過ぎたからだ、
そんなことを言って家で悪態をつくことも多々ありましたねぇ。。。


実家に帰ってももともと嫌いな父と話すのも面倒になって、適当にちょっと話す程度、
最近は話しかけてくる内容も意味不明だったりしたので、軽く無視していたり、、
なんて感じで。


そんなある日、母から電話があり、父が入院したと言われ、
暫く入院しているのであれば、母を連れ出して食事などにも行けるかな、
そんな軽い気持ちで思っていたのですが。


その翌日、ちょうど、寿輔師匠の独演会を楽しみ、打ち上げに参加して、
かんぱーい♪とビールに口を付けたところで母から「父危篤」の電話。


師匠と後援会の方に、「親が急変したと連絡がありましたので、失礼します」と、会場を後に
急いで電車に乗って実家エリア(田舎)にある大学病院へ。。


元々の病気と関係があるのか、、分からないのですが、
全然違うところで病状が悪化していたらしく、、緊急手術をしたものの、
本人の体力が戻るかどうか、、という説明をお医者さんから聞いて一旦帰宅した後、
安定したり不整脈が出たりの繰り返し。


いつまでこういう状態が続くのか。


本人は意識がないというものの辛いだろうし、
毎日病院に通う母も高齢で疲れきっているし。


そんな状態で1週間。


私は父が安定している時は友達と食事したり、自宅で休んだり、でしたが、
再び危篤の呼び出しがあって、病院へ。


その後、病院の家族控室に母と泊まって、
昼間はICUの待合室で急変なければいいね、なんて話ながら待機。


病院の家族控室、、地下にあるのですが、、、
もう夜になるとまっくらだし静かだし、、何より、某◎フトバンクが「圏外」。



圏外。(笑)



でも、疲れているのか、母も私も早く寝てそのまま朝まで爆睡。。。。




ちょうど当時ぷーたろーだった私も、
さすがにこのままだと社会にもどれないのでは、と派遣登録して、
やっと決まって働きはじめようとしたところでしたので。



お父さん、これまで私が冷たくしたのを恨んで嫌がらせしてんじゃないの?
ったく、性格わるいぜ。


なんて心の中で悪態ついたりしたんです、最初の頃は。


でもね、途中から気持ちが変わってきたというか。


もしかしたら、私がぷーたろーで時間のある時だから具合悪くなったのかな、
高齢の母を支えられるようにって仕向けたのかな。


そんな気持ちに変わっていきました。



なんというか、土俵の徳俵に足がかかっているところで、
ものすごく踏ん張っている粘り強い力士。



例えが変なのですが、父がそんな感じに思えたりしたんです。



まるで私たちが落ち着けるまで粘っているような。



待合室でそんな話を母としながら、
不謹慎ですが、父が旅立っていったときのことなども話し始め、
ある程度、段取りというか話が出来たころ。



心肺停止、ずっとICUにはいってから手当してくださった先生に宣告され、
旅だっていきました。。



先生からや看護師の方々からは、


「年寄りだけれどはきはきしているお母さん(婆1号)」

「オロオロせず、ハキハキして段取りのよい娘(婆3号こと私)」


そんな風に見られていたらしく、入院してから亡くなるまでの説明と、
出来れば今後の救急医療の研究に、、と解剖の依頼があったので承諾し、
解剖4時間の後、父は自宅に戻りました。。。。



救急の先生、私より小柄ながら、ものすごい存在感があったのですが、
最後、手を尽くして父が亡くなった後、霊安室でお線香を上げてくださった姿は、
今までより小柄に見えてしまいました。
(ま、私がデカ女ってことなのですが(^_^.))




ICUの医師や看護師の方々、、日々の救急患者に真摯に対応されている姿を
2週間くらい間近に見ることができたこと、自分の知らない世界を知ることができたというか、
こういう方々のお陰で私たちも安心して暮らせるのかもね、なんて母と話しました。


あと、、ブログで知り合ったお医者さんの某姐にも、LINEで色々と相談させていただき、
お医者さんの立場として、また、年上のオネエサンとして、また、親を亡くされた経験者として、
いろいろとアドバイスをいただき、母と心強い思いでいられました。。。。


姐、ありがとね。



ぷーたろーだったお陰で、父や母と接することが出来た時間は今後も大きな財産かな、
なんて思いながら、父と一緒に帰宅しましたが、、、この後もいろいろとやることがありましたので、
それはもう、フル回転で父を見送ることにエネルギーを注ぎました。




(つづく)

 
nice!(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感