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成田空港と私 [いろいろ②]

旅記事の途中ではありますが、折角成田空港エリアにきましたので、
成田空港と私の思い出について本日はつらつら書こうと思います。

先に書いておきます。今回の記事は長いです。(笑)

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以前、「飛行機と私」という記事をJGCになったころに書いたので、
内容が一部重複すると思いますのでご容赦いただきたいのですが、

(飛行機と私①)https://utsubohan.blog.ss-blog.jp/2008-08-26-1
(飛行機と私②)https://utsubohan.blog.ss-blog.jp/2008-10-06-1

成田空港に比較的近いエリアに実家があったので成田空港勤務の方が
近所に多かったのが成田空港への親近感が今も結構あったりします。

①実家から成田空港までそこそこ近い


一応、私うつぼ、東京生まれで未だに戸籍も東京都にはあるのですが(嘘じゃない)
所謂ドーナツ化現象が進む中、千葉の田舎に造成された戸建て団地に引っ越したのが
昭和40年代後半。(一応1970年代です)
その頃には新東京国際空港(成田空港)建設の計画が決まっていたのもあって、
私が引っ越してから同じ団地にお父さんがJAL勤務、というご家族がぽつぽつと
引っ越してきました。(近所の同級生のお父さんもJAL)、
お隣さんがパンナム(その後、太平洋路線が買収されウナイテッド)、
団地内の同級生のお父さんがノースウェスト、小学校でも低学年の頃から
転校生が増えるとその内の数%はお父さんがJAL勤務、中には海外からの帰任で
成田空港に近い場所にお引越しなんて方が多かったので、うつぼ父がまったく
飛行機に何の関連もない仕事をしているにも関わらず、同級生やご近所さんの
「航空会社勤務」というのがどこかキラキラして見えました。

アテンションプリーズ(ドラマ)のリアル世代ではないものの
(どちらかというとドジでのろまな亀世代)
やはり遠い夢みたいな海外旅行をかなえてくれる飛行機への憧れもありましたし、
なんといってもアップダウンクイズで10問正解したときのタラップセレモニーを
見るとテンションが上がっていたのと(鶴丸マークのバッグが欲しかった私)
パイロットや機関士(当時はこういうポジションの人がいたんですよね)のお家に
黒塗りハイヤーがお迎えにきて制服姿で颯爽と車に乗り込む姿がカッコよかったこと、
当時、航空会社の社員(と家族)は空席があれば無料で勤務先の飛行機に乗れるので、
1978年の成田空港開港後、結構豪華に海外旅行していたのを自慢する方も近所に
いて、そんな機会が皆無のうつぼ家では、〇〇さん家は今年も海外でいいねー、
なんて、という意味で羨ましく思っていました。(笑)


②京成スカイライナーの思い出

そんな成田空港開港と同時に京成電鉄がスカイライナーの運行を開始、
婆1号とうつぼ兄、私で婆1号の実家(長野県)に行った帰りに国鉄(笑)上野から
京成上野まで移動すると、うつぼ兄が「スカイライナーに乗りたい!」とごねて
3人でこげ茶にクリーム色のカラーリングのスカイライナーに乗って成田まで行って
(成田空港駅まで行く必要はないと婆1号が言ったので空港まで行くことが出来ず)
そこから折り返して実家最寄り駅まで移動したことを今でも覚えています。

(私にとってのスカイライナーはこのイメージがいまでも強いです)https://news.yahoo.co.jp/articles/d03ade4eb55faa387e4082a08094b8632d0275a7/images/000


ちなみに、このスカイライナーに、クッククックー私の青い鳥こと桜田淳子さんが
乗っていて、車内が結構ざわついていたので、サインもらってくる!と淳子さんが
乗車する車両まで行ってみると、強面スーツ姿のおじさん(多分今の私よりは若い)が
「ダメダメ、この先には行けないから」と言ってきたので、「サインがほしいです!」
と粘ろうとしたものの、「ダメダメ、帰って帰って!」と門前払いされ、
泣きながら婆1号とうつぼ兄の座る座席まで戻ったのは小学生の頃の私です。(笑)
でも、冷水器(自販機なんてない時代)で紙コップ(というか袋)に入れて飲んだ
お水が冷たくて美味しかったこと、冷房が効いていて快適だったことなどで、
サインがもらえなかったことは相殺されいたというか、その後は楽しい気持ちで
京成成田駅までスカイライナーに乗れました。(当時は引きずらない性格だった)

当時の成田空港駅は現在の東成田駅ですが、当時はこの駅で降りてから有料バスに乗って
成田空港(当時は第一ターミナルしかなかった)に行くという面倒な駅でした。
京成だって別にそんな面倒なことをしたかったわけではないのでしょうが、
国鉄が成田新幹線を計画していたので民間の京成が空港直結に出来ないというのも、
お客さんの利便性より政治家の利権と親方日の丸の国鉄の力の方が上だったという
ことなのかもしれませんね。
その後、国鉄が分割民営化でJRとなり(E電(笑)が普及しなかった民営化直後)、
成田新幹線計画も消えてなくなり、その後、空港直結の成田空港駅が出来て、
第二ターミナル完成と共に第二ビル駅も出来て利用客には便利になりました。
東成田駅については、肉乃小路ニクヨさんが東成田駅を訪れた様子をYouTubeで見て
久しぶりに訪れたくなっております。(^-^)


③成田市市史編纂室でのアルバイト

話があっちにもこっちにも行ってしまい恐縮ですが、
成田空港といえば、高校生の頃、春休みに成田市市史編纂室というところで
成田空港というか、三里塚闘争の新聞記事をひたすらハサミでじょきじょき切って
スクラップブックに貼り付けるというアルバイトをしたことがあります。
まだ飛行機に乗ったことがない頃のアルバイトですが、
記事を読んでもいいよと言われていたので読ませていただきました。

もともとは、当初の候補地が千葉県の浦安、八街、茨城県の霞ケ浦、
神奈川県の金沢八景、その中から千葉県の八街(ピーナツで有名なところ)に
内定したものの、反対が起きたので短期間でその近くの成田市三里塚であれば
土地の買収も国有地の活用も含めてスムーズに進むだろうとあっという間に
閣議決定してしまったことから、その後の三里塚闘争につながるわけですが、
騒音問題などを心配する周辺住民や空港建設地の土地所有者が強制的に
移転させられることへの不満から大きな反対運動に広がっていったんですよね。
三里塚芝山連合空港反対同盟が結成されて大きな反対運動が繰り広げられていった、
という中での新聞記事だったのですが、国鉄神田駅から丸太棒で反対派が改札を
強行突破した、とか、成田駅周辺の商店街の街灯を破壊しまくったとか、
そんなことがあったというのを成田空港建設で大変、というレベルの認識だった私も
新聞記事を読んでただただ驚きました。

記事の中には、バイト代をもらって反対活動に参加する大学生もいたり、
反対派の偉い人はそういう危ない場面には決していかずに遠くから見ている、
スカイライナーも開通前に反対派に車輛を燃やされてしまうとか、
本当に反対している人以外(アルバイトや洗脳されてしまった人)、
そんな人たちも多かったのではないか、高度経済成長期の日本でしたが、
学生運動、東大紛争もあったような時代で、何かそういう流れの中で権力に反対する、
そういう気持ちに流れていった人(バイト代が欲しかった人もいたと思いますが)が
群衆心理というか、本当に空港建設に反対していたのか分からない人も
こういう暴力的な活動に参加していたのではないかと記事をみて思いました。

そんなバイトを1週間くらいやってみて成田空港に興味を持つようになった頃、
高校通学で京成電鉄(成田空港行)に乗っていると、「中核派」と書かれたヘルメットを
被って覆面した集団が何十人も乗ってくるという光景に遭遇する機会が何度かありましたが
当時は既に車内でもおとなしく乗っていて一般の人に危害を加えるようなことはなく、
でも、何かされたらどうしよう、と、怖かったのは未だに覚えています。

インターネットが普及したばかりのころ、航空関連の2ちゃんねるみたいな掲示板があって
(エアタリフというサイトですが運営していた方(なかこー機長)がお亡くなりになって
現在はサイト自体閉鎖されています)私も情報収集に使わせていただいていたのですが、
今でも覚えているのが、成田空港の話題の掲示板での書き込み。

「千葉県の人はそんなに成田に空港がほしかったんですか?」

上に書いた通り、成田空港建設は政府主導で決めたこと、千葉県の政治家(自民党)は
空港を作ってほしかったかもしれませんが、住んでいる人は近所に空港があるからって
簡単に海外に行けるわけでもないし(確かに地域での雇用の創出はありますが)、
何言ってんのんこいつ、って思ったのですが、考えてみれば、東京だけでなく、
埼玉や神奈川から成田空港に行くだけでもうちょっとした小旅行ですから、
そりゃ文句を言いたくなるのもごもっともですね。(笑)
千葉県なのに「東京」と名の付く場所が多いのも県民としては微妙な気持ちですし
開港当初「新東京国際空港」と呼ばれていたのにずっと違和感があったので、
現在「成田国際空港」となって個人的にはほっとしています。
(とはいえ、出発空港をTYOで選択してフライト検索すると
 HND(羽田)、NRT(成田)利用で検索されちゃうんですよね。(笑))

結果的には思ったように用地買収できないまま開港して、
思ったように滑走路も拡張していけず、そうこうしているうちに羽田空港が
滑走路を増やして離発着便数を増やしていって国際線の儲かる路線は羽田に移す、
現在はそんな感じで成田空港にはLCC専用の第三ターミナルが出来て、
羽田と成田のすみわけが時代の流れとともにできていっているように見えます。

とはいえ、私自身は海外旅行といえばやはり成田空港から出発すると
テンションが更にあがるような世代です。(最近全然海外に行っていませんが)


④初めての海外旅行

初めての海外旅行も成田空港から出発。
ロンドンにいくにも予算が少なかったので(大学生だったし)、
当時旅行会社に勤めていた友人に一番安い航空会社でいいからと
チケットを手配してもらったのですが、それがパキスタン航空でした。(笑)
お金のないバックパッカーは当時パキスタン航空でカラチ経由、とか、
アエロフロートでモスクワ経由とか、日系なんてとても高くて乗れないので
海外の航空会社で行くしかなかったので、パキスタン航空、機体大丈夫かな、
ま、大丈夫か、みたいな感じで旅の支度をしていたら、出発間際になってから
「上司が初めての海外旅行でパキスタン航空は可哀想だから変えてあげなさい、
 って言ってくれたからキャセイ航空に変更したから」と連絡をくれて、
今は出来ない?海外発券(香港往復は日本発券、香港から先は香港発券)で
同じ値段でキャセイ航空を手配してもらった上に、出発日、友人が成田空港まで
見送りに来てくれるというなんだか大袈裟なセレモニー的な感じで出発した、
もう30年以上前の話なんですが、友人から渡されたカーボンコピーのチケット、
チェックインカウンターでの丁寧な対応、広々とした空港、手を振る友人、
今でもその光景が思い浮かびます。

その後も、プライベートでも仕事でも使っていた成田空港、
ラウンジが使えるようになってからは贅沢な時間を過ごさせてもらっていますが、
自分の中では一番しっくりくる空港です。
(羽田空港は建て直したりして昔訪れたときと違うのであまり親近感がない)

そんな成田空港に今回訪れて、あまりに寂しい光景をみて悲しくなったのですが、
早くコロナが終息して、人の往来が自由にできるようになって、飛行機に乗って
旅を自由に楽しめるときが早く戻ってきてほしいです。

と、まとまりがないのですが、成田空港の思い出はこのへんで。

明日から暫く航空科学博物館の記事をアップします♪



タグ:成田空港
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けせらんぱさらん

私も20代の中頃 バックパッカーを気取ってヨーロッパへ
もちろん直行便など無く モスクワ経由は高価で便数も少なく
スカンジナビア航空でアンカレッジ・コペンハーゲンを経由して
クタクタになってフランクフルトに着いたのを覚えています

そういえば子供の頃 顔にタオルを巻いた
ヘルメット姿の人達が町を闊歩していて 子供心に怖かったのですが
今は居なくなりましたね

by けせらんぱさらん (2021-08-27 15:31) 

うつぼ

けせらんぱさらんさん、こんにちは。
バックパッカー、懐かしい!
SASだったんですね。確かに当時使っている人、多かったですね。(^-^)
私もバックパックを背負ってヨーロッパ内を電車で旅しましたが、
この年では体力気力ともできないです。(笑)
中核派はさすがに令和の時代にはおとなしくなっているのだと思いますが
ヘルメットに顔タオル、けせらんぱさらんさんも見たことあるんですね。
ほんと、近くにいるとまじ怖です。(>_<)
by うつぼ (2021-08-29 17:59) 

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