和歌山旅行記2020~万博記念公園編①~ [日本の旅(関西&東海)]
和歌山旅行記というタイトルなのですが、旅の終盤は大阪です。(^-^;
伊丹空港に行く前に近場で訪れることができる場所は、と探したら、
(大阪、未だに色々な場所の位置関係がよくわかっていなかったりします)
万博記念公園が出てきて、ああそういえば、伊丹空港から乗った京都行のバスの
車窓からみたのが太郎、そうだ、太郎(=太陽の塔)を見に行こう、と思ったのが
今回訪れた理由です。
太陽の塔なのですが、私の頭の中では「(岡本)太郎」と呼んでいます。
岡本太郎先生、ごめんなさい。<(_ _)>
関東で生まれ育ったので大阪万博については遠いところで開催された万国博覧会、
うつぼ家、時代の流行りとか大きなイベントに一切流されない家だったため、
当然のことながら大阪万博にも興味なく、うつぼ家では殆ど話題にならなかった、
そんな家もあったのだと今思い返すと不思議なのですが(マイナー一家です)、
中年になってから京都に再び行くようになって、伊丹空港からの車窓での体験、
太郎を直に見てみたい、という気持ちになって今回やっと来ることができました。
といっても、大阪万博=太郎、なのでそれ以外は全く知りません。
正式には日本万国博覧会、というんですね。
私が高校生の時に友人たちと訪れたつくば博は「国際科学技術博覧会」。
つくば博と呼んでいたので大阪と同じ万博かと思っていのですが違うのかしらね。
創立記念日(4月の平日)にクラスの友達数人といったのですが、
千葉県(北総)から隣県ながら茨城県つくば市への移動は果てしなく遠く、
ロケーションが理由で開幕当初は来場者が少ないと問題になっていたので
4月に訪れたときはガラガラでパビリオン入り放題だったのはよかったのですが、
ちょっとした食事でもかなりぼった栗価格だったのを未だに覚えています。
パビリオンで記録に残っているのは集英社館のミイラくらいかな。(笑)
と、いうわけではじめての大阪万博、の記念公園だったので、
意外と楽しくて面白くて、恐ろしい枚数の写真を撮りました。
取敢えず記事をアップするのにかなり間引きしたつもりなのですが、
多分5回くらい記事が続くと思います。どうか適当に読んでやってください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
公園の入口で入園料(260円)を支払って中に入ります。
チケットにも太郎。
広いなあ
モノレールの線路を挟んで両側の敷地に遊園地も含めて設備が建てられて
一日で見るのは大変だったのではないかというほどの広さにまずびっくり。
伊丹空港に行く前に近場で訪れることができる場所は、と探したら、
(大阪、未だに色々な場所の位置関係がよくわかっていなかったりします)
万博記念公園が出てきて、ああそういえば、伊丹空港から乗った京都行のバスの
車窓からみたのが太郎、そうだ、太郎(=太陽の塔)を見に行こう、と思ったのが
今回訪れた理由です。
太陽の塔なのですが、私の頭の中では「(岡本)太郎」と呼んでいます。
岡本太郎先生、ごめんなさい。<(_ _)>
関東で生まれ育ったので大阪万博については遠いところで開催された万国博覧会、
うつぼ家、時代の流行りとか大きなイベントに一切流されない家だったため、
当然のことながら大阪万博にも興味なく、うつぼ家では殆ど話題にならなかった、
そんな家もあったのだと今思い返すと不思議なのですが(マイナー一家です)、
中年になってから京都に再び行くようになって、伊丹空港からの車窓での体験、
太郎を直に見てみたい、という気持ちになって今回やっと来ることができました。
といっても、大阪万博=太郎、なのでそれ以外は全く知りません。
正式には日本万国博覧会、というんですね。
私が高校生の時に友人たちと訪れたつくば博は「国際科学技術博覧会」。
つくば博と呼んでいたので大阪と同じ万博かと思っていのですが違うのかしらね。
創立記念日(4月の平日)にクラスの友達数人といったのですが、
千葉県(北総)から隣県ながら茨城県つくば市への移動は果てしなく遠く、
ロケーションが理由で開幕当初は来場者が少ないと問題になっていたので
4月に訪れたときはガラガラでパビリオン入り放題だったのはよかったのですが、
ちょっとした食事でもかなりぼった栗価格だったのを未だに覚えています。
パビリオンで記録に残っているのは集英社館のミイラくらいかな。(笑)
と、いうわけではじめての大阪万博、の記念公園だったので、
意外と楽しくて面白くて、恐ろしい枚数の写真を撮りました。
取敢えず記事をアップするのにかなり間引きしたつもりなのですが、
多分5回くらい記事が続くと思います。どうか適当に読んでやってください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
公園の入口で入園料(260円)を支払って中に入ります。
チケットにも太郎。
広いなあ
モノレールの線路を挟んで両側の敷地に遊園地も含めて設備が建てられて
一日で見るのは大変だったのではないかというほどの広さにまずびっくり。
入ってすぐ太郎(太陽の塔)
おぉぉぉぉぉ(◎_◎;)
やはり目の前に立ってみると物凄い迫力です。
50年前からずっと立っているって私と同年代。
これをみると
万博の5年後くらいにサントリーのウィスキーのCMで太郎さんが登場し、
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」という、
(太郎さんが底に顔をデザインしたグラスをプレゼントしたんでしたよね)
まだお酒も飲めない小学生なのに太郎さんの語り口と表情、
実際、グラスの底に刻まれた顔を見て未だに刷り込まれている状態の私ですが、
そのCMの方が先にインパクトがあったのでそれより前の太郎(太陽の塔)をみると
ああ、この後にあのグラスの底に顔、だったんだ、、としみじみ。
と、公園に入っていきなり太郎さんに驚いて写メを撮った後は、
ロッカーに荷物を預けました
かなり古めのロッカー、一部使えずビニールテープが貼ってあって、
万博後50年経って色々な意味で公園の維持が大変なんだろうな、と
ロッカーに貼ってある黄色いテープを見ながら思いました。
太陽の後は、EXPO'70パビリオンに行こうと進んで右折して、
案内が出ているので素直に右折
休憩所
って書いてあったのですが、日中でもかなり中は薄暗く怖い感じ。(´゚д゚`)
万博開催期間中はこういうところに座って暫し休憩、って感じだったのかな。
EXPO'70パビリオンへ
到着
吉本新喜劇によるポスター
大坂に来ると、吉本の芸人さんを使った広告なども多いみたいで、
ああ大阪だなあと思います。(^-^)
入館料は210円(安)
1970年の大阪万博開催時に鉄鋼館として使われた建物が今はEXPO'70パビリオンとして
使われているそうです。
おぉぉぉぉぉ(◎_◎;)
やはり目の前に立ってみると物凄い迫力です。
50年前からずっと立っているって私と同年代。
これをみると
万博の5年後くらいにサントリーのウィスキーのCMで太郎さんが登場し、
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」という、
(太郎さんが底に顔をデザインしたグラスをプレゼントしたんでしたよね)
まだお酒も飲めない小学生なのに太郎さんの語り口と表情、
実際、グラスの底に刻まれた顔を見て未だに刷り込まれている状態の私ですが、
そのCMの方が先にインパクトがあったのでそれより前の太郎(太陽の塔)をみると
ああ、この後にあのグラスの底に顔、だったんだ、、としみじみ。
と、公園に入っていきなり太郎さんに驚いて写メを撮った後は、
ロッカーに荷物を預けました
かなり古めのロッカー、一部使えずビニールテープが貼ってあって、
万博後50年経って色々な意味で公園の維持が大変なんだろうな、と
ロッカーに貼ってある黄色いテープを見ながら思いました。
太陽の後は、EXPO'70パビリオンに行こうと進んで右折して、
案内が出ているので素直に右折
休憩所
って書いてあったのですが、日中でもかなり中は薄暗く怖い感じ。(´゚д゚`)
万博開催期間中はこういうところに座って暫し休憩、って感じだったのかな。
EXPO'70パビリオンへ
到着
吉本新喜劇によるポスター
大坂に来ると、吉本の芸人さんを使った広告なども多いみたいで、
ああ大阪だなあと思います。(^-^)
入館料は210円(安)
1970年の大阪万博開催時に鉄鋼館として使われた建物が今はEXPO'70パビリオンとして
使われているそうです。
太郎!
最近、太郎というと、河野の太郎さんも私の記憶スペースに若干入ってきていますが、
(麻生は敢えて思い浮かべないようにしている(笑))
やはり太郎といえば岡本です。
この太郎さん、万博エリアの真ん中のシンボルゾーンにあったものなんですね。
今と違って建物の屋根を突き抜ける格好で展示されていたというのも
今回初めて知りました。(そのくらい大阪万博の知識なし、です(^-^;)
展示スペースを順路通りに進むと、最初は万博の歴史。
私自身はパリ万博(渋沢栄一が訪れた)とか、シカゴ万博(名残が水族館で残っている)、
そういうイメージですが、ホスト国として開催するというのは名誉だったのでしょうね。
このシンボルマークは私もなんとなく記憶にあります。
史上最大のプロジェクト!
戦後復興として東京オリンピックが開催されたのが1964年、
その翌年にプロジェクトが始まり、5年で開催までこぎつけたというのは、
確かに、日本という国としてのプライドもあったでしょうし、
戦後復興のシンボルとして国威発揚的な意味合いもあったのかな、なんて
思いました。
設計図
これで一部なのでしょうが膨大な設計図を具現化したというのは
その後の日本経済成長の起爆剤にもなったのだろうなというのが
(特にゼネコン)こういう図面からもうかがえます。
1968年 建設ラッシュ
現在よりも工期の長い環境下で万博会場を施工するというのも、
現在のオリンピック施設建設であれこれ揉めているのを見ていると、
勢いとか熱量も違ったのかな、なんて思いますね。
20代前半くらいまでは電話でコンサートチケットを手配していた身としては
こういうチケット販売も海外の方への割り振りを含めて手配するのは大変だったのでは
そんなことを感じました。
切手とかたばことか。(今、切手シート収集家ってどのくらいいるのかな)
今はたばこに万博のマークをプリントするというのは考えづらいのですが、
やはり国家的なイベントで、国民全体が応援するような勢いだったんでしょうね。
(一部例外:うつぼ家)
会場完成後に引き渡された鍵かな
序盤から国家的なプロジェクトだなあと思いながら見ていると、
換気や距離、時節柄な対応ですね
公式ガイド
こういうのを見ながら色々なパビリオンを回るのが楽しかったのでしょうね。
この後に、
確かに私が小さい頃の大人とか子供ってこんな感じの装い。
万博見学の七つ道具として、
サングラス、帽子、ズック(笑)靴、といったレジャー用のもの、
パビリオン待ちにビニール風呂敷や折り畳み簡易椅子、
会場で迷子にならないための方位磁石(!)、
買い物するための小銭などがあげられていました。
個人的にはビニール風呂敷って私も遠足のときに水玉模様の風呂敷を持参していたので
読みながら妙な親近感を感じてしまいました。(笑)
また、ファッションとして、当時女性の外出着として着物も多く、
手荷物も風呂敷に包んで、というスタイルが多かったこと、
子供や若者が被っていたテンガロンやチューリップハット(懐)、
団体客がはぐれないように揃いの法被やワッペンを身につけていたというのが、
スマホもない時代の工夫に思えました。
お子さんが腕につけたワッペン
登録されたワッペンの6桁の番号でコンピュータが迷子を照会し、
テレビ電話で親子の確認をしたという説明が書いてあってびっくり。
私がまだ生まれて間もない頃にそんな技術があったことにびっくりしたのですが、
日本で出来る最新鋭の技術が万博で実際使われていたということを知りました。
序盤で驚きっぱなしで順路に従って進んでいくと、
来場者ベスト10
米ソ、かと思ったら、ソ連の次にカナダ、その次にアメリカって、
米ソでワンツーフィニッシュじゃないんだな、と少々驚きました。
60分以上って
TDSでも60分くらいな許容範囲内って思う人が多い時代ですが、
50年前、60分待ちってどのくらいの我慢レベルだったのか、
実際はもっともっと長く列に並ばないとパビリオンの中に入れなかったのでは?
こういうアナログな看板を見てもいろいろ考えていましますね。
いろんな№1
待ち時間の長さ№1って。(笑)⇐(アメリカ館)
色々な数字
来場者数も凄いのですが
患者数( 一一)
特に夏場は並んでいて気分の悪くなる人も多かったのかもしれませんね。
全体図
太郎♪
実際に見たこともない万博ながら序盤からワクワクしてきました。
というわけで、展示はまだまだ続きます♪
(つづく)
最近、太郎というと、河野の太郎さんも私の記憶スペースに若干入ってきていますが、
(麻生は敢えて思い浮かべないようにしている(笑))
やはり太郎といえば岡本です。
この太郎さん、万博エリアの真ん中のシンボルゾーンにあったものなんですね。
今と違って建物の屋根を突き抜ける格好で展示されていたというのも
今回初めて知りました。(そのくらい大阪万博の知識なし、です(^-^;)
展示スペースを順路通りに進むと、最初は万博の歴史。
私自身はパリ万博(渋沢栄一が訪れた)とか、シカゴ万博(名残が水族館で残っている)、
そういうイメージですが、ホスト国として開催するというのは名誉だったのでしょうね。
このシンボルマークは私もなんとなく記憶にあります。
史上最大のプロジェクト!
戦後復興として東京オリンピックが開催されたのが1964年、
その翌年にプロジェクトが始まり、5年で開催までこぎつけたというのは、
確かに、日本という国としてのプライドもあったでしょうし、
戦後復興のシンボルとして国威発揚的な意味合いもあったのかな、なんて
思いました。
設計図
これで一部なのでしょうが膨大な設計図を具現化したというのは
その後の日本経済成長の起爆剤にもなったのだろうなというのが
(特にゼネコン)こういう図面からもうかがえます。
1968年 建設ラッシュ
現在よりも工期の長い環境下で万博会場を施工するというのも、
現在のオリンピック施設建設であれこれ揉めているのを見ていると、
勢いとか熱量も違ったのかな、なんて思いますね。
20代前半くらいまでは電話でコンサートチケットを手配していた身としては
こういうチケット販売も海外の方への割り振りを含めて手配するのは大変だったのでは
そんなことを感じました。
切手とかたばことか。(今、切手シート収集家ってどのくらいいるのかな)
今はたばこに万博のマークをプリントするというのは考えづらいのですが、
やはり国家的なイベントで、国民全体が応援するような勢いだったんでしょうね。
(一部例外:うつぼ家)
会場完成後に引き渡された鍵かな
序盤から国家的なプロジェクトだなあと思いながら見ていると、
換気や距離、時節柄な対応ですね
公式ガイド
こういうのを見ながら色々なパビリオンを回るのが楽しかったのでしょうね。
この後に、
確かに私が小さい頃の大人とか子供ってこんな感じの装い。
万博見学の七つ道具として、
サングラス、帽子、ズック(笑)靴、といったレジャー用のもの、
パビリオン待ちにビニール風呂敷や折り畳み簡易椅子、
会場で迷子にならないための方位磁石(!)、
買い物するための小銭などがあげられていました。
個人的にはビニール風呂敷って私も遠足のときに水玉模様の風呂敷を持参していたので
読みながら妙な親近感を感じてしまいました。(笑)
また、ファッションとして、当時女性の外出着として着物も多く、
手荷物も風呂敷に包んで、というスタイルが多かったこと、
子供や若者が被っていたテンガロンやチューリップハット(懐)、
団体客がはぐれないように揃いの法被やワッペンを身につけていたというのが、
スマホもない時代の工夫に思えました。
お子さんが腕につけたワッペン
登録されたワッペンの6桁の番号でコンピュータが迷子を照会し、
テレビ電話で親子の確認をしたという説明が書いてあってびっくり。
私がまだ生まれて間もない頃にそんな技術があったことにびっくりしたのですが、
日本で出来る最新鋭の技術が万博で実際使われていたということを知りました。
序盤で驚きっぱなしで順路に従って進んでいくと、
来場者ベスト10
米ソ、かと思ったら、ソ連の次にカナダ、その次にアメリカって、
米ソでワンツーフィニッシュじゃないんだな、と少々驚きました。
60分以上って
TDSでも60分くらいな許容範囲内って思う人が多い時代ですが、
50年前、60分待ちってどのくらいの我慢レベルだったのか、
実際はもっともっと長く列に並ばないとパビリオンの中に入れなかったのでは?
こういうアナログな看板を見てもいろいろ考えていましますね。
いろんな№1
待ち時間の長さ№1って。(笑)⇐(アメリカ館)
色々な数字
来場者数も凄いのですが
患者数( 一一)
特に夏場は並んでいて気分の悪くなる人も多かったのかもしれませんね。
全体図
太郎♪
実際に見たこともない万博ながら序盤からワクワクしてきました。
というわけで、展示はまだまだ続きます♪
(つづく)
タグ:大阪
ここ、当時のユニフォームとかもたしか展示してて、
楽しいですよね~~~。
ああ、また行きたい!
そして大阪編の続き楽しみです。
by lovin (2021-04-22 20:22)
lovin姐さん、こんにちは。
姐さんは大阪に住んでいらしたことがあるからこの万博も参加された
のでしょうか。
五十路になって今更感もあったのですがメチャクチャ楽しめました。
あと5回(笑)続きますので読んでやってくださいませー。
by うつぼ (2021-04-23 15:08)